9.「鎌倉殿の13人」第45回「八幡宮の階段」を見た:役者の力量を最大限に引き出す脚本の力と引き出された小栗義時・柿澤実朝・寛一郎公暁/地元の書店が生き残っている嬉しさとありがたさ(11/28 09:18)


< ページ移動: 1 2 3 4 >

このあたりは同じことなのだけど、実朝暗殺を受けて宙に浮いた後鳥羽上皇の皇子の鎌倉下向について、言下に取りやめだと言いながら泰時や三善たちの意見も聞きつつ「こちらから断るのではなくあちらから断るように仕向けよう」と敢えて下向を催促すると「異論を聞いた形で自らの望みをより有利な形で解決する」という策士ぶりが泰時や三善を唖然とさせるのも今までの力技とはダークさが一段違う成長を見せているのも面白かった。

息子と孫を一度に亡くし呆然とする政子に「これからはもっと重要な役目を担ってもらう」と言い放ち、死を決意する政子を監視させていた(のだろう)トウに止めさせる。もっともトウは監禁されていた源仲章の屋敷を脱出した直後のように描かれているからトウの意思と見えなくもないが、義時の命令でなければ政子の御所にトウが潜んでいるのもおかしいのでおそらくは義時の意思なのだろうと思う。死ぬことも引退することもできないと知った政子が「頼朝未亡人」という公的な地位を演じ続けるのは普通に考えればきついことだしそれが従来描かれてきた「悪女としての政子」ではなく、弱さと気丈さを両方持った存在として、特に気丈さを強く押し出して描かれているのは政子像として新しいのではないかと思った。

義時が政子に「われらは一心同体」というのは、ただ利用しようという意思だけではなく、本当に心の底からそう思っているだろうというのは今までの経緯からも察せられるわけで、「誰にも遠慮せずにやりたいことをやれるようになった」義時にとっても仕える対象が甥たちであるよりは姉であった方がよりシンプルに動けるということはあるんだろうなと思うし、大事にしたい気持ちそのものも本心ではあるのだろうと思う。

このあたりに比べると泰時や義村、運慶に対する気持ちの動きはもっと微妙なところがある。泰時に対しては、「父上を止めます」という泰時に対して頼もしさとやれるものならやってみろと言う余裕、そして「父を超えて行け」という思いさえも感じさせる凄味の中にも温かさを感じさせる演技で、とてもよかった。

義村に対しては「俺を殺すつもりだったのか」と聞いて「そんなことはない(大意)」と答えた義村が去り際に襟を直す(=義村が心にもないことを言っているときに現れる癖)のを見る、というのがタイムラインでは話題になっていたが、私は言われるまで気が付かなかった。なんだかんだ言って義時は人の心が分からないところがあるので私の見方では「心にもないことを言っている」という分かりやすいサインであるというよりは単に「テンパっている」っという心の動きである気がするのだが、少なくとも義時がそのように受け取ったということは分かるような仕掛けになっているわけで、ここも面白い。そしてそのように問いかける義時の気持ちにはやはり怒気と悲しみが含まれているわけで、それが分かっているからこそ義村はためらいなく公暁を殺したという説得力を生じさせている。

義時が公暁を討った報告をする義村に対し、北条と三浦が協力してこそ鎌倉は安泰だと言い放ち、義村が「これで鎌倉はバラバラだ」と違う場で吐き捨てるのも面白い。実際実朝の死後100人以上の御家人が出家したそうだから、そのように見えても当然だっただろうと思う。そして親王下向を実朝の意思として実現するというポーズをとるのはその対策としても有効だと考えたわけだろう。義時が義村に「裏切ったらどうなるかわかるだろうな」と釘を刺し、義村に改めて「こいつには逆らえない」と思わさせた演出は深く礼をする義村の鋭いまなざしとともに舌を巻かせるところがあった。

心ならずも権力闘争に巻き込まれ苦悩する義時の最大の理解者でもあった運慶に対する対応も、芸術家に対する尊敬というものを消し去り「同じ俗物」という地平に立ったうえで敢えて「権力者としての無茶ぶり」を行うという挙に出るのもある種の義時の悲しみを感じさせるし、運慶がそれをどう受け取ったかは運慶が彫った神仏の像がどのようなものになるかだろうから、それを見たいという感じはある。このあたりはまあ、「権力者としての孤独」というものを最大限に感じさせながら、その悲しみが青年時代からの迷いと地続きであることを感じさせる存在として義村と運慶を出したのだなと思った。いやなんだかやはりすごいな三谷脚本。

***

他の人物に対しても、特に実朝に関しては「太郎のわがまま」を聞いて持っていた小刀を、おばばの「天命に逆らうな」という声を聞いて捨て、公暁に自分を斬らせるという選択を取るのは、実朝という人が結局は「他人の思い」に敏感で、それをかなえてやりたいと思ってしまう優しさという権力者としては致命的なウィークポイントを持ち、だからこそ御家人たちに慕われ優れた歌を詠んだのだろうと思わせるところは大変良くできていたと思う。

実朝もそうだが、やはり「この事件の主役」である公暁の脚本上の描写と演出が今回は最も重要なところの一つだろう。


< ページ移動: 1 2 3 4 >
9/5053

コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
一覧へ戻る

Powered by
MT4i v2.21