8.冷え込んだ/報道の姿勢への懸念/ボランティアは「世界を救う」のではなく「素朴な善意」によって「謙虚な姿勢」で行われるべきである(04/10 09:06)


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ただ内容的にはじっくり読んで文を構成しないとボランティア至上主義批判の論としては未熟になりそうなので感想という形で書いておくけれども、まずは「ボランティアの自由な活動」=無条件の善、「行政によるボランティアのコントロール」=絶対悪、と考える「ボランティアの専門家」がいるということが最大の驚きだった。朝日の記事で不審に思ったことは記憶に新しいが、逆に朝日新聞に取材されるくらいには権威だということで、そこにはかなりメディアのおかしさ、「ボランティア学」のおかしさみたいなものがはっきりと現れていると思った。

このようなボランティアに特権的な神々しさを付与しようという「ボランティア学」は被災地にはかなり迷惑なんじゃないだろうか。私は基本的にボランティアなんて現地の人に邪魔にならないように謙虚に行動すべきだと思うのだが、彼らは「ボランティアこそが被災地を救う」とむしろ信仰のようになっている。それを「状況が悪いから来ないでくれ、少し待っていてくれ」と言った行政を絶対悪として批判しているというのはちょっと状況に対して不当すぎると思う。

しかしこういう思想があるということを知ると、山本太郎さんとかが被災地に行って豚汁御馳走になって帰ってきたことが英雄譚として語られる背景も少しは理解できるなとは思う。「被災地に行く」こと自体が絶対的な善、であるということなんだろう。

だから「今は来ないでください」と呼びかけた行政が絶対的な悪であり、「被災地の復興が遅れているのはボランティアを拒否した行政及び政府のせい」であり、実態とは関係なく「能登の復興は遅れている」という信仰に結び付いているのだろう。

こうした状況は、例えば東日本大震災の福島原発事故の際の、「原子力発電所は悪」「だから放射能に汚染された地域は元に戻らない」「復興の努力は無意味でむしろ汚染されてない地域の人々にとっては害」みたいな発想から被災地を差別する方向にメディアや左派が向いていることの核になっている「原子力は人類の敵」みたいな信仰から全てが判断され、風評が流されていることと問題の根は同じなのだなと思う。

「ボランティアは善」だから無制限に奨励されるべき、という発想と「原子力は悪」だからそれを肯定したり現状を変えていこうとすることは許されることではない、という単純な善悪の発想によって物語が組み立てられ、そうした方向に全てを設計していこうという方向こそが「リベラル」であり「人類の進むべき未来」であるという信仰が核にあるわけである。

これは「ジェンダー思想は善」「それを否定するのはミソジニー」「LGBT思想を否定するのは差別者」「障害者が援助されるのは当然の権利なので礼など不要」「クルド人が問題を起こしたからと言って騒ぐのはレイシスト」みたいな全てを善と悪で切り分け、「共生の理論」と称しながら「排除」を全面に押し出していく一連の思想と重なってくるわけである。

この論文はこうした事態の異常性に注意を喚起し、警鐘を鳴らしているわけだけど、これらは大きくは華青闘告発以来の左翼運動の中から出てきた社会を支える労働者のための左翼運動とは似ても似つかぬ形になったマイノリティ支援の運動と、ボランティアもそこに含まれてしまった形での運動家こそが正義の使徒という信仰をさらに強めていこうという動きなのだと思う。

こうした思想の背景には太田竜氏の思想だとか見田宗介氏の比較社会学であるとかカスタネダ的なものとかニューエイジ的なものとかなんやらかんやら様々な思想が雑多に参照されつつ形成されてきた感じなのだが、そういう中には多分フーコーとかデリダとかも入っているだろうし言語論的転回とか社会構成主義とか様々な思想によって自分の都合の悪いエビデンスは無視しつつ思想を構築していった結果が現在のようなボランティア「学」のようなものたちの状況であるのだろうなという感じはする。

私はボランティアというのは基本的に「素朴な善意」で行われるべきだと思うし、「世界を救う」みたいな思想的背景がなければできないようなものであるのはあまり良くないと思う。というか世界的に見ればこうした行為には宗教的背景があることは多いからそういう意味でそういうものにつながっていってしまう危険が常にあると考えるべきなのだろう。

まあ私の結論としては、ボランティアは素朴な善意で行われるべきものであり、世界を救うような思想的な誇大妄想ではなく、謙虚な姿勢で行われるべきものだ、としておこうと思う。


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