6.漠然とした警戒感:科学主義的ナチスドイツとデジタル中国(01/20 08:27)


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そうした設計主義の弊害に目を向けると、もちろん現在の社会も不満はたくさんあるから変えていくべきところはあると思うけれども、それは設計主義ではなく漸進主義で進めるべきだ、という保守思想を支持するということになるわけだ。

最近危惧の念を抱いていることで言えば、工学的思考の統治システムや社会システム政策への持ち込みということがある。これは上手に使わなければ、というか「道具として使う」という意識をきちんと持たなければ、かなり危険な面もある方向性だと思う。

現在も新型コロナのワクチンの配布についてロジスティクスが問題になっているが、ロジスティクスといえばある見事な例は、ナチスが百万人単位で人間を強制収容所に送り込んだケースだと思う。この辺りのことはどう研究されているのかわからないが、普仏戦争以来のドイツの鉄道の軍事利用の方法論が非常に役に立っていると思う。

現在、共産中国への憧れ、特に最近では中国における新型コロナ感染症の管理の徹底ぶりに憧れてる人が右も左もノンポリもいるように見える。中国のように日本ももっと徹底的にやるべきだ、のような。そこにはおそらく、「社会は設計でき、その通りに進歩できる」みたいな思想が今の日本にも相当強くあるからだという気がする。そしてそれは特にテクノロジー寄りの人にそういう傾向が強い感じがする。

テクノロジーで社会を進歩させられる、という思想は共産主義的=設計主義的な理想主義と非常に相性がいい。国家社会主義=ナチスが当時の最先端のドイツの科学技術を手に入れたことと、今の中国がデジタルテクノロジーを手に入れたことは、かなり近似したやばい現象であるように思える。

デジタルテクノロジーの進歩に警戒している人はそう多くないように思える。デジタルディバイドであるとかそれに付随する問題を考える人はいても、その進歩自体に警戒感を持つ人はそう多くないだろう。また、その警戒感を持っていても、自分自身が使いこなせる程度にはアップデートしないとそういう警戒感自体を伝えていけないという状況にもなっている。

設計主義による人間と社会の破壊というものを見て来ていると、そういうものに対しての警戒感を持たざるを得ないし、それゆえの保守主義という面が私にはあるのだ、ということが自分の中で今気がついたことであるのだけど、今の段階ではとりあえずこの警戒感を伝える、ということをしておくことかなと思う。



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