5.「宝石の国」12巻を読んだ:天人五衰・仏を荘厳しない宝石たち/ゼレンスキーはなぜ逃げなかったか:「想像の共同体としてのウクライナ国家」は生きて戦っている(11/23 08:06)


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また、本来は月人の公務員に過ぎなかったエンマが修羅のようにお互いを傷つけ殺し合う月人たちに秩序を作り上げるために尽力し、いつしか「王子」になっていくという展開も、地方に配置された軍人たちが本国が滅びて土着化したローマ帝国のシャグリウスなどを思い起こさせたりした。日本でも東国の武士たちも本来は地方に派遣された地方官=軍事貴族であったはずが土着化して中央とつながりを保ちつつ地方豪族としても力を持ち、貴種を迎えてさらに自立性を高めてついには中央政権を打ち倒すに至るという「鎌倉殿の13人」とも話が繋がったりした。

人類の文明が滅んだ後の世界という意味で言えば「関東地獄地震」のあとのバイオレンスジャックの世界とか、「北斗の拳」の世界とはまた別の終末の描写でもあり、仏教的世界観のSF化という意味で言えば「百億の昼と千億の夜」とも繋がる。

仏教の世界ですら仏を荘厳するためにしか用いられない宝石たちを主人公にするというのが作者さんの意図だったというのは独特の世界観だなと思うわけだけど、仏は誰を救うのかまたなぜ救うのかというのもまた問いかけられているように思った。

ハードカバーの別冊小冊子はビアズリーの版画のような線画が月での宝石たちの生活を綴っていて、これを描くのにはかなりの期間を要しただろうなと思う。これは私の勝手な推測だけど、恐らくはこれを描かなければ続きが描けないという感じに作者さんはなっていたのではないかなという気がする。長期にわたる休載期間にこの内容が描かれていたのではないかと勝手に思っている。

時間のある時にまた全体的に読み返せばいろいろ気づくところもあると思うので、またその時に書きたい。

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Twitterを読んでいて、「ゼレンスキーはなぜ逃げなかったか」という話題があった。ロシアの侵攻が始まったあの時点で、軍事に詳しい人ほど「大統領はすぐ避難すべきだ」と考えたのだという。もちろん、ゼレンスキーは逃げずにキエフに踏みとどまったわけで、それがウクライナ国民やウクライナ軍の士気を高め、今日に及ぶ健闘につながっていることは言うまでもない。頭部はともかくクリミアに近い南部では速やかにウクライナ国家を裏切りロシアの占領に協力した勢力もあったわけで、プーチンやロシア軍だけでなく彼らにとってもゼレンスキーが踏みとどまり、ウクライナ国家・ウクライナ国軍が持ちこたえたことは大きな誤算だっただろう。

危機が迫れば逃げ出す、というのは国家元首としては別に珍しくないことで、特にヨーロッパの王族などは国際的なつながりもあるしそれを頼って亡命することは多い。もちろん逃げ損なうとフランス革命の時のルイ14世の家族のように処刑される結末になる可能性はあるわけだけど。しかし一時的に亡命して情勢が好転したら帰国し、また政権に復帰するというようなことは取り立てて珍しくはない。

しかしゼレンスキーにその選択肢はあっただろうか。多分これはシンプルな話で、東部のロシア語を話す地帯のユダヤ人として生まれ育った彼が持っているのは、ソ連の支配から解放された「民主化されたウクライナ国家」だけしかなかったからだと思う。

ウクライナは多民族・多言語国家であるとはいえ、中心になるのはウクライナ正教を信じるウクライナ人であり、ウクライナの伝統の上に生きる人たちだろう。もともと複雑な成り立ちのウクライナは西部のより西欧化された地域と東部のよりロシア寄りの地域、黒海沿岸のユダヤ系やギリシャ系、クリミアタタールの多く住む地域などに分かれるが、2014年のロシアのクリミア占領とドンバス侵略によって「ウクライナ人としての国民意識」が目覚め、急速にそれが高まっていることは指摘されている通りだと思う。

つまりゼレンスキーのやるべきこと、守るべきものはそうしたステータス・クオとしてのウクライナ国家だけであって、そのためには「逃げるという選択肢」はなかったのだと思う。

これはおそらく多くのウクライナ人たちに共有可能な国民の神話であって、もしゼレンスキーが逃げ出していたらその国民の神話自体が崩れ、ウクライナは今あるような形での戦いは続けれらていなかっただろう。もしそうなったらプーチンの大ロシア妄想によってウクライナ国家は存続の可能性を絶たれていたかも知れなかったわけで、これは本当に大きい。

もちろん欧米諸国の援助という当てもあっただろうし、また8年に及ぶ国民意識と国軍の力の涵養に関してもそれなりの自信はあっただろうけれども、賭けであったことには間違いない。しかし恐らく彼は逃げていたら政治生命はほとんど絶たれていただろうし、そういう意味でも実際にはそれしか選択肢はなかったのだと思う。

そういうゼレンスキーを非難する日本の親ロシア派の人々は本当に何を考えているのか理解に苦しむのだが、恐らくは彼らの中で国家としてのウクライナというものを認められないのだろうなと思う。親中国派の人たちもおそらく国家としてのチベットとか台湾、東トルキスタンというものを、中国共産党の主張に従うという意味だけでなく彼らの観念としても認められないのと同じように、ウクライナはロシアの一部でなければならないというある種の妄念から逃れられないのだろうと思う。


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