「頼山陽の思想」そろそろ返却しないといけないのだが、読み切れていないしまだじっくりと読みたいところもあるので、買おうかなと思い始めた。線を引きながら読みたいところもあるし、普段考え慣れないテーマはもう少し没入しないと得るものが少ない感じがする。
今読んでいるのは第二章「「君主論」の成立 頼山陽」の第2節「英断の君主」の第2項「権力の把持」なのだが、恐らくはこの前後がこの著作の一つの大きな肝になるところだろうと思う。
国家における「君主」の機能は「判断と決定」にある、というのはその通りだと思うのだが、それを儒学者たちの「宰相」必要論と比較する形で山陽も著者も展開して行くのは面白かった。宰相を廃止し皇帝独裁を強めた明のやり方の儒者側からの批判というのは儒者の権益にかなうものだというのはなるほどそうだなと思ったし、逆に戦前期の人々が権力が集中する「幕府的存在」を嫌い、結果的に陸軍と海軍の対立など官僚的セクショナリズムの弊害に陥った一つの原因が山陽の思想の影響としてあるのかもしれないとは思った。
国家において誰がどのような形で権力を握るのが正しいのか、それはどのようにして正当化されるのかというのは民主制でも君主制でも重要なことであり、そのためにさまざまな国家制度が生まれているわけだけど、「士の気」を重視しつつ「君主の決定権」を重視した山陽の思想が形式的には明治憲法に生かされたけれどもイギリス的な立憲君主制をモデルと考えていたらしい昭和天皇の考え方のちょうどエアポケットのようなところに歴史の蹉跌が生まれたのだなという残念な気持ちもまた感じるものはあったのだった。