4.呉座先生盗作批判騒動を読んで思ったこと/「東大法学部を優秀な成績で卒業」という「低学歴」/日本で「反知性主義の民衆反乱」が起こらない理由(01/14 08:29)


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時代を下って考えてみると、日本では(前近代は日本だけではないが)あまり学問が重視された時代は少なく、江戸時代になって綱吉・家宣らの時代、特に正徳の治の新井白石などが数少ない学者優勢の時代だったが、徳川吉宗の登場による幕閣革命によって「やまとごころ」優勢の時代は確立したように思われる。その後明治大正期、また終戦直後にはある程度学問の力が認められた時代があったけれども、また「やまとごころ」重視の時代になっているように思われる。

それ自体がいいか悪いかというのは一概には言えないことだが、「学問」=漢才、「実務」=やまとごころのどちらかが圧倒的に強くなることはやはり弊害があるのではないかと思う。

もう一つ、これに関連して面白いと思われるのは、「反知性主義」の問題だ。トランプ現象をはじめ、多くの国では知性=アカデミズムに対する反乱がおこってきていて、それは政府中枢、EU中枢に「知性の権化」である専門知性を持った官僚たちが蟠踞し、「庶民」がそれに反乱を起こす、という図が成り立っている。

しかし日本ではそうした「反知性主義」の問題は絶対的な国家の存立を脅かすような大きな問題になっていない。民衆反乱的な現象は起きていない。それは、今まで述べたように、実は「政府中枢=官僚」の側が「知性」の立場ではないからなのではないか。トランプのように政治の側が反知性が取る、ということは民主主義社会ではあり得ることだけど、日本の場合は官僚制度そのものが「学歴の低い」人たちによって占められており、つまりは根本的に「反知性」の側に立っていて、「知性」の側に立つ「学者」やまた比較的学歴の高い「野党・リベラル・左翼」を攻撃する側に回っている、という日本独自の現象があるからではないかということに思い当たった。

そう考えてみると冒頭に書いた呉座先生を批判した官僚出身作家のケースもそうした図式の中で見てみると興味深い現象の一つだと言えるように思う。

まあ結論としては、行政・官僚の側はもっと学問の専門知に敬意を払い、研究が自由に活発に行われる土壌をもっと整備する方向で対応するべきであると同時に、学問・アカデミストの側が積極的に自分たちの価値を発信し、また現実への対応能力を高めていく必要があると思う。「学者バカになってもいいがバカ学者になるな」という言葉がもてはやされた時代はもう過去のことで、「学者バカ」だけの社会ではもう学問の世界は守っていけない段階になっていると思う。豊かな専門知を持ったうえでさらに行政的な能力、政治と丁丁発止する能力を持った学者が出てこないと学問の世界を十分に守ることはできない。「漢才」だけでなく「やまとごころ」もまた学者に求められる時代になったということであり、学界内部での評価もまたそういうところも考慮して行かないと、日本の学問自体が危ない状態は解消されないのではないかと思う。


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