三つ目は、日本の学会ではあまり強く認識されていないが、歴史学というものはそれ自体がアイデンティティ政治の最前線であるということである。この辺りは、近代史においては以前から認識されているし、古代史においても任那日本府や高句麗好太王碑の問題などで認識した人も多いと思うが、現代では先に述べたようにアイデンティティポリティクス上の最大に重視されるものの一つが黒人のアイデンティティであるということもあり、「黒人のサムライ・弥助」というのはその最も焦点になる存在であるということである。欧米では当然ながら大航海時代はヨーロッパによる植民地支配や奴隷貿易に出発点としてコロンブスが問題視されたようにかなり前からアイデンティティ政治(戦争)の対象に(戦場に)なっていたわけだが、それがついに日本にまで及んできたということである。
だから日本人内部に対する啓蒙として弥助のサムライとしての地位の評価を与えることはそれはそれで意味があることなのだが、アイデンティティポリティクス上では自説の強化の部品として使われることは意識しておくべきことであるわけである。
現実問題として、日本中世史の新鋭の学者が「キャンセルカルチャー」の餌食にされたように、歴史学は決してアイデンティティポリティクスと無縁なわけではない。またこれはいわば戦争であるから、「謝ったら多めに見てもらえる」というようなものではなく、ポリコレイデオロギーの学習=洗脳を義務付けられ忠誠を誓わされるなど精神の自由にも大きな影響を与えるものであることは意識しておかなければいけないだろう。
客観的に言えばまずこうしたアイデンティティ政治というものをより明確にイメージできるようにその全体像をはっきり描いていくこと自体は、こうしたアイデンティティ政治の不毛性を明らかにし、より高次の人類の在り方を考えていくことで重要であると思う。私自身も、もう少しその辺りを研究していきたい感じはしている。
もう一方では、戦後ガタガタにされてしまった日本のナショナルアイデンティティというものの再構築があるだろう。例えば安倍元首相の「美しい国・日本」というのは一つのそうした試みであったと思う。
今回の弥助問題について、Twitterという限定された場ではあるにしろ、多くの人が憤激しこの問題について正確不正確を含めた多くの議論が行われたのは、日本人自身がアイデンティティの大きな要素と考えている「日本の歴史」を侵害された、そこを不当な形で歪めようとしている存在が明らかにされた、ということにあるわけである。
これはいわば、日本が今まで営々と気づいてきたものを小説やゲームによって奪おうとする勢力に対する憤激、日清戦争後の「三国干渉」に対する憤激と本質的には同じだと思う。
弥助問題について批判しようとする人たちに対して、歴史学者の方々が「ネトウヨの人たち」という言い方をするのは、この問題がアイデンティティ戦争であることをはしなくも表している。「ネトウヨ」という言葉は日本のナショナルアイデンティティを大事にしようとする人たちに対する侮蔑語であるからである。そうした侮蔑語を躊躇なく使うということは、これは社会人としての礼を最初から欠いた態度であり、そうした意見を「敵」と見做している、つまりは戦いの相手と見做していることを示しているわけである。
だから冷静に批判しようとする人たちに対してもネトウヨという言葉をぶつけ、どんどん敵を増やして収集がつかなくなっている。
先にも述べたが、オープンレターによるキャンセルカルチャーで有為な学者がキャンセルされたこともあり、歴史学を含む人文学の内部ではアンチポリコレと思われると学者生命に関わるという状況が生まれているのだろうと思う。そういう意味では同情の余地はないわけではない。
現代において、どんな国にでも保守派とリベラル派というものはある程度は存在するわけだけど、日本の保守においてはなかなかその核になる存在がない。保守と言われる自民党も結局は生活保守、経済優先でこうしたアイデンティティ論においては冷淡な人々が多いのが実情であり、また熱心な人たちもいわゆるネトウヨ的な近視眼的な論点に陥っている人が多い。
こうした状況を改善するためにはやはり保守のメインになる論壇というかそういうものが必要なのだと思うし、そこで論点を整理して、リベラル派のアイデンティティ侵略に対抗していく必要があるのだろうと思う。今までも「新しい教科書を作る会」のような試みはあったし、日本会議のようなそういうものを主導していく人たちは現れてはいるのだが、より冷静に客観的に日本のナショナルアイデンティティの再構築に関わる場が必要なのだと思う。
「立場を超えたアイデンティティ政治の研究」と「ナショナルアイデンティティそのものを再構築させる場」という二つのことを両立させていくことは難しいとは思うが、これらが今一番取り組まなければならないことなのではないかと私は思っている。