第二次世界大戦は「ファシズム対民主主義の戦い」と定義されることが多いが、スターリンのソ連や蒋介石の中華民国が民主主義だというのは全く論外だということは今になれば明らかであり、その定義自体が「アイデンティティ政治」の産物であることがよくわかる。
ヨーロッパ戦線、つまりナチスドイツ対チャーチルのイギリス・ルーズベルトのアメリカという構図においては、かろうじてこの主張は成り立つだろう。しかし東部戦線でソ連がやったことは決して褒められることでないのはもちろんである。
アジアの戦争に関しても、日米戦争は結局は中国利権をめぐる争いであり、それも本来はそんなに深刻なものではなかった。実際のところ、日本近代史においても、「日本が中国を侵略した」ことについては詳しく書かれていても、なぜアメリカがそれに介入して、最終的にはハルノート、つまり日本の中国権益の放棄と撤退を要求するほどの介入をしてきたのかは分かりにくい。
これは後付けの説明によれば満洲事変以降の日本の中国への軍事的進出は国際法違反であるからそれに制裁を加えるため、という理屈が成り立つが、現実には日本が真珠湾攻撃を行なったから参戦したことは明らかであり、それが決定的にアメリカ世論を盛り上げて熱心に対日戦争に取り組むことになったのは明らかである。
しかし極東軍事裁判において連合国側のイデオロギー、特にアメリカの民主主義アイデンティティによって日本が徹底的に糾弾され、日本はそれを受諾する形で平和条約を結ばざるを得なかった。
現実問題として、連合国側が日本に対して行った非人道的な扱いは多くあり、イギリスの「アーロン収容所」問題であるとか米兵による日本兵の頭蓋骨持ち去り問題、中国共産党による帰還兵の洗脳、ロシアによるシベリア抑留や日ソ中立条約違反の侵攻など非常に多い。それらは極東軍事裁判で問題にされなかったから現在まで多くの問題を残している。それはつまり勝者の裁判であり、日本側のナショナルアイデンティティをいかに否定するかがこの裁判の目的であったことを示している。
実際問題、日本では裁判は公正中立な裁判官による真実の確定だと思われがちだが、アメリカの裁判などを見ればわかるように民主主義社会における裁判は実際には政治闘争である。極東軍事裁判も日本人は「天による処罰」みたいに受け取る向きが多いように思うが、現実には政治闘争であったと認識しないと前に進むことはできないと思う。
こうしたアイデンティティ闘争の起源はマルクス主義の階級闘争理論だと思うが、マルクス主義には一応の科学的根拠、つまり史的唯物論という「社会主義革命の必然性」という理論があった。しかし現代の「リベラルと呼ばれる勢力」中心に行われているアイデンティティ政治においてはそうした科学的根拠がないため、より露骨な権力闘争になっているわけである。
日本の連合国の占領期間において、いわゆるWar Guilt Information Programという日本人に戦争の罪を自覚させるためのプログラムが存在したと言う主張があるが、そういう統一的なプログラムの存在自体はよくわからない、というかある種の陰謀論にはなりそうなのだけど、リベラルは常に倫理的正義を掲げてナショナリズムを批判してきていて、それは日本だけに止まらない。ただナチスなど明白にリベラルに対する攻撃があったこともまた事実なので、その辺りを客観的に明らかにしていくことは必要なのだろうと思った。
つまり、政治的立場に関わらず、アイデンティティ政治というものが大きく現代の世界を動かしていて、日本人はそれに鈍感、言葉を変えて言えば「平和ボケ」の状態だということができるだろう。
ここで書いておきたいこととしていくつかあるのだけど、まず一つは「アイデンティティポリティクス」あるいはアイデンティティ戦争というものが現代の世界政治を大きく動かしているということである。アイデンティティポリティクスは大きく言えば「戦争」、つまりクラウゼヴィッツ的に言えば「別の形で遂行される政治の延長」である。ウクライナ戦争を見ればわかるが、直接の戦争参加がなくてもそれに対する態度表明は重要であり、戦争当事国にとって支持の奪い合いが勝敗を決する可能性を持っているわけである。
二つ目は、アイデンティティポリティクスにおいてリベラル派の武器はポリティカルコレクトネス、いわゆるポリコレであり、最近では世界的に見ればDEIというものが新たな手段として用いられるようになってきているということである。弥助をめぐる論争は一つには一企業の作ったDEIによる世界観が歴史認識を大きく歪めている例であり、現代のアイデンティティポリティクスの複雑な様相を一つには示していることになる。