3.「近代の超克」の失敗と「現代の超克」の見通し:ジェンダーやコロナをめぐる混乱などにも関連して(04/24 09:26)


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こうした現代社会・現代世界というのは、西欧近代というスタイル・意匠・方向性をより一般化した形で世界に適応させていく形でスタートしたわけで、アジアアフリカ諸国の独立や国際連合への加盟など、基本的にはいわば「修正近代主義」の形で進んできたのだと思う。

ただそれを極限まで推し進める方向性が強くなってきたのはいわゆる1968年革命以降で、特に20世紀末から現時点にかけてジェンダー思想(フェミニズムやLGBT思想)やエコロジー思想、学問的にはジェンダースタディーズやカルチュラルスタディーズなど、いわゆる「言語論的転回」によって近代思想そのもの、またそれ以前に人類が積み上げてきた文明的蓄積全てについて疑問を投げかける方向性が生まれたことは「修正近代たる現代」にかなりの影響をもたらしている。

これにはいろいろと議論があると思うけれども、私は個人的には弊害の方が多い、もっと言えばかなり根本的な文明的危機をもたらす可能性があると思っている。

ただこれは、ローマ帝国・ローマ帝国を滅ぼしたのがある一面においてはキリスト教やストア主義的コスモポリタニズムであった、というのと同様、ある種の「歴史の必然」と考えるべきなのではないかという気もしなくはない。

ただもし「文明」や「近代」を守りたいのであれば、この破壊の方向性を食い止めるための思想や行動が今必要とされているのだろうと思う。言語論的転回も初期にはおそらく「創造的破壊」「自由のための革新」みたいな意義がつけられていたと思うが、現在では「創造なき破壊」「自由を殺す革新」の方向に進んでいるのではないかという危惧があちこちで見られる。

また新型コロナ感染症のもたらしたパンデミックが与えた甚大な社会への影響というのも、これらの問題と重なる部分はある。特に「医学・疫学=科学」に関する信頼性というものが大きく揺らいだということにおいて、近代・現代への疑惑というものが生まれたことは大きいのではないかと思う。東京15区の選挙をめぐる混乱なども同じ根を持つ部分もあると思うが、今回は詳述しない。

まあこうした問題は、もとよりこんな小論では扱い切れる話ではないのだが、今私が思っている問題意識について素描してみたので、またここから発展させられればいいなとは思っている。

ただ、こうした混乱自体も含めて「現代」だという認識は私にはあり、そういう意味で「現代の超克」というものをどう考えていくかというのは課題だなと思っている。

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書いている途中で吉田茂がGHQを利用して政敵(「軍国主義者」や「共産主義者」)を排除していった過程について考えていて、まあ決して褒められるやり方ではないなとは思ったが、戦前の政治家が天皇の権威を利用し、樺山資紀が「なんのかんの言っても日本の近代化は薩長のおかげ」と言ったら「天皇陛下の御威光のおかげだ!」と批判されたり、尾崎行雄の桂内閣弾劾演説でも「天皇の影に隠れて弾を打ってくる卑劣なやり方」みたいな非難をしたりした話を思い出したり、また昭和天皇自身が天皇の権威を利用した、ないし使ってしまった出来事が三つあったなとか(田中首相叱責、二二六事件収束、終戦の聖断)そういうことについても書こうと思ったが、この辺はまた別の機会に書きたい。



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