先が見えない時代とよく言うけれども、今自分がいる場所すらわからない時代になっているのだから、先のことなど分かるはずがないなあと思う。というか逆に言えば今いる場所が分かってきたら少しは先のことも見えるかもしれないという気はしなくもない。というかそういう希望は持ちたいと言えばいいか。
昨日買った金子夏樹「リベラルを潰せ」(新潮新書)を読んでいて思ったのだけど、90年代冷戦崩壊後のアメリカやロシアで「世界家族会議」というものがつくられ急速に力を伸ばしているというのは日本で言えば「日本会議」みたいな存在だなと思ったのだけど、少なくとも日本では一般的にはこの「世界家族会議」の存在は全然知られていないわけで、その知らないものが世界で大きな影響力を持っているということは、やはり少し怖いことではある。知らないということそのものが世界を正確に理解するのに大きな落ちになるわけで、そういうものがあるということ自体にある種の危機感を覚えるのだが、まあそんなものは多分他にもいくらでもあるのだろう。
昔は世界を知るためには歴史を知らなければと思っていたけれども、最近では歴史以前にまず今の世界そのものを知らなければいけないし、その背景を知るためにその歴史を掘り下げるという順番でしか、世界を知ることはできないのではないかと思うようになっている。残念ながら、ゆっくり落ち着いて世界の事象のすべての歴史を追いかけることはできないわけで、とりあえずは目についたものからつぶしていくと言えばいいか、知っていくしかないという、学問的というよりはジャーナリスティックな視点でしか先ずは世界を知るという目標というか、そういうものは実現できない気がしてきている。
過去、現在、未来を知るのに、以前は過去から時系列的に知っていけばよいと思っていたのだけど、今ではそんな余裕はないなという気がする。現在を知り、少し過去を知り、多少は未来を展望する、そのくらいの感じだろうか。もっと時間があればいいとは思いながら、時間をかけているうちに世界は変わっていってしまう。
とりあえず今の問題意識を整理してみたが、それでどうなるんだというとよくわからないが、もう一度この文章を読み直してみよう。