現代のSNSなどで難しいのはこの辺りのことで、全体の主張は全体を読めばわかるけれども発言一つを切り取ってしまうと非常に不適切な発言に思われてしまうということがよくあるわけである。ここはまあ、全ての人を一度に説得するのは難しいということで、戦前の日本でもよく「顕教と密教」という言い方をしたわけだが、つまり「大衆向けの誰にでもわかるような言説」と「ある程度訓練を受けたエリートにのみ伝わる言い方」みたいなものを分けて考えるやり方は常にあった。
現代のSNSでは同じ人がアカウントを「光明面と暗黒面」みたいに使い分けたりしているが、まだその辺の技術は確立されたとは言えず、国際政治学の専門家が群がるいわゆる保守系のアカウントと斬った張ったをやっていて、その有り様を「怖い」と感じてしまう人ももちろんあるわけだけど、伝わるべき人に言いたことを伝えるための技術やメディアというのはなかなか難しく、結局は学びたい方がそれを選んでいくしか最終的にはないのだなとは思うのだが、それにしても伝える側の工夫もまだできるところはあるだろうなと思うところもある。まあデマアカウントも真摯な報道者もポエジーな感想も全てが等価のように見えるのがSNSの良さでもあり危うさでもあり、現状なかなかそれを超えられない、とまとめるしかないのだろうなとは思う。
この章の最後では「言葉を言葉として受け止める」ことの重要性について書かれていて、映画の場面で刑事がマフィアのボスのところに乗り込んでマフィアと死闘を繰り広げ、三人をあの世に送ったところでしれっとボスが現れ、「部下たちが失礼なことをしてすまなかった」とヌケヌケというと、刑事が「今度はこのような歓迎はやめてもらいたいね。洋服が汚れる」と答えるという場面について述べている。これはこうしたジャンルの表現に慣れている現代の我々から見れば当たり前のように見えるが、現実にこのようなことが起こった時にこういう冷静な対処ができるかと言えば難しいだろう。
また、1984年の大統領選挙で民主党のモンデールが共和党のレーガンの老齢を取り上げ、「若さと活力を必要とする政治に不適である」と批判したのに対し、レーガンは「私は年齢を選挙の争点にはしていない。またモンデール氏の知識と経験の不足についても争点にしていない」と答えて会場の爆笑を引き出し、これでレーガンの選挙における勝利を確信したという人もいたという話も触れられていた。このような返しのうまさはレーガンが「グレートコミュニケーター」と言われた一つの理由であるだろうけど、言葉を「全身で」受け止めて「年齢など関係ない!」と激昂して反撃したら白けたことは確かで、「言葉を言葉として受け止める」というのは自己を客観視して即座に当意即妙に言葉で反撃できるということだなと思った。少なくとも「この頭の回転があれば年齢は問題ないな」と感じさせるのも大したものだとは思う。
マンガのことなども書くことはないわけではないが今日はこの辺りで。雪は結局今のところ降っていないが降るかどうか心配する必要がないからタイヤを交換したことは正解だったと考えておこうと思う。