10.タイヤ交換/トリガー条項/対話技術の日本における意味と有効性/ソクラテスの技術とヒトラーの技術、それにレーガンの技術(11/30 07:58)


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ただ最近は欧米でポリティカルコレクトの思想がリベラルを中心に広まり、それに対する保守側のアンチポリコレの主張も強く、その争いの中で日本がスケープゴートにされて「遅れた国」扱いされることはよくある。発展途上国やイスラム圏を非難することは逆の意味でポリコレに抵触する可能性があるが、欧米文化をフォローしようとしている日本に対しては安心して上から目線で説教できるという利点が彼らにはあるからである。日本人、なかんずく欧米への移住者や生活者の日本批判は日本人の魂を失い彼らを小利口に真似た口吻で日本を批判するものが多く、「(欧米)出羽守」(二言目には「欧米では?なのに日本は?だ、日本は遅れている」と日本を批判する)と馬鹿にされたり嫌われたりしているわけだが、彼らはともかく欧米人そのものに対しては理解と戦略を持って対処していく必要はあるだろう。

ただ、欧米に追従する、欧米以外の価値観を見ないで欧米のみの価値観を追いかける、ということになってしまっている人も多いわけで、その辺りはまた問題がある。「多文化理解・マルチカルチャリズム」的な考えの人は例えばイスラム世界への理解を示しているように見えるが結局はポリコレ的なポーズであることが多いわけで、我々に本当に求められているのはそういうポーズではなくその本質を掴んで対処することだろう。そうなるとミイラ取りがミイラになる危険性も高いのだが、多くの先人たちの積み重ねの上に日本にもそういう蓄積はかなりできてきているので、ポリコレのポーズでない本当の国際理解を進め、日本人として適切に対処できるようにしていきたいものだと思う。

考えてみると自分も子供の頃から日本神話が好きで白虎隊の自刃に感動したりする面もある一方で、世界には飢えに苦しんでいる人もいるとか戦争で犠牲になった人たちは可哀想だと思うある種の意識の高さの原型的な感情も持っていた。

ただそういう方向のみに走らなかったのは、「天皇制」を攻撃したり神道を否定したりする人たちが世の中にはいるということを割合早い時期に知り、彼らが理想とするものについても考えたりはしたということもあるし、付き合う人たちの中で国際理解というものはどういうものかということについて考えたり、植民地支配というものがどういうものかとか自分なりに考えてレポートを書いて、大学で授業を受けた先生に強い言葉を使われたりしたような経験が、「自分の思想は自分で選びとっていかなければならない」という考えを持たせてくれたように思う。

日本は空気を読む社会であるから、自分の生存のためには思想すらも「生存に最適な思想」を空気を読みながら選びとっていく人たちが多いのは事実であって、特に近年は出版界や学術界などでその傾向が強いようには思う。そういう世界で思想的主導権を取っているポリコレ系の思想の暴走がなかなか止められないのはそういう「その世界での生存のためにその思想を支持している」人が多いということはあるだろう。

「自分はそうは思わない」とか「それはちょっと違うと思う」ということを言うためには、思想的な背景を充実させる必要があるのはもちろんだが、それだけではなく「その世界では生き残れてはいるけど一味違う発言をする人」として認められるようなある種の表現のテクニックが必要であるわけで、そう言う意味でも「自分が自分であるために」弁論術というのは重要だと思った。

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「対話のレトリック」4章の「比喩・ユーモア・アイロニー」のところを読み終えた。最初は比喩や誇張の適切な用い方について書かれていて、その辺は最初は読みにくかったのだが今読み返してみるということは伝わってくるようになった。「無知の装いの効用」のところでは、「自分を過小評価する表現をすることで相手が発言しやすくする」、つまりソクラテスの「無知の知」の文脈の話が出てくるわけだが、ソクラテスは「もっと優しく教えてくれないか。そうでないと君の門下で学べないだろう」と言ったりしていてまるで現代の「この分野については素人なのですが」という大家の発言みたいなテクはソクラテスが元祖なんだなと思ったりした。

これはソクラテスにしろ現代の大家にしろ周りから彼自身が「知の巨人(現代ではこの表現もだいぶ安くはなっているが)」に見られていることを承知しているから成り立つ技術であって、その逆を用いたのがヒトラーだ、というのもなるほどと思わせる。大衆に対しては絶対的な自信、絶対的な信念を主張することが有効だ、という技術で、これはアリストレスの「話し手は聞き手に信頼感を与えなければならない」という原則に忠実なわけである。しかしソクラテスのやり方もまたアリストテレスは「語り手はあらかじめ自分を批判しておくと語り手が自分のしていることに気づいていないわけではないから、彼のいうことは確かだろうと聞くものに思わせることができる」という原則に忠実なわけで、この二つは矛盾するように見えるが、要は説得する相手によって話し方は変えなければならない、ということであるわけだ。


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