7月20日(土)曇り
昨日は午前中に母を病院に連れて行き、午後は疲れてうとうとしたり。とりあえず書店に行ってチャンピオンREDは買って、「絢爛たるグランドセーヌ」の最新話は読んだ。コロナ対策が一進一退の時期、新しいステージ進んでのレッスンの再開というところで、過去の仲間、新しい仲間、新旧交代の悲喜こもごもという感じでなんだかじわっとくる感じの回だった。
今朝はネット上でてんやわんやの騒ぎになっている「アサシンクリード」というゲームに取り上げられている黒人の「侍」、弥助をめぐるあれこれについて書こうと思ったのだが、この騒動の元になったストーリーを描いたイギリス人で日大准教授のトマス・ロックリー氏がネット上から全ての論文を削除して所在不明になったとの報があり、新しい展開を見せている。
弥助という人物はもともとイエズス会のバテレンとして知られているヴァリャリーノがインドから従者として連れてきた黒人で、信長に請われて譲ったという人で、信長は肌の黒さに驚いて色が落ちないかと入浴させ、変わらないのを見てその肌の黒さに納得した、というエピソードは私も子供の頃に読んだ。
彼は古い文書には「黒奴」とあるので奴隷と思われがちだが、当時の日本では南方の肌の黒い人たちはジャワ人などに関しても「黒奴」と記していたそうで、この「奴」は奴隷という意味ではなく「黒いやつ」今では差別用語とされるが「黒ンボ」という程度の意味だろうと考えられるようだ。
彼は信長に仕え、帯刀し、屋敷地を与えられ、扶持をもらっていたので「侍」と言っていいというのが大方の戦国・安土桃山史の専門家の意見のようだ。苗字を持っていないのは、弥助が信長の家臣の誰かの養子となって苗字が与えられる前に本能寺の変になったからだという説明が別のところにあって、それは説得力があるなと思った。
https://x.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/1814356500326035650
弥助は信長の伝記やそれを描いた映像作品の中で、以前はそんなに取り上げられていなかったけれども、最近はその存在のユニークさから取り上げられる例が増えてきた人物だとは思う。後に述べるようにこれに関連しては「多くの黒人奴隷が日本の大名たちに買われていた」というような荒唐無稽の説が出てきたようだが、当時の日本の記録には全くないのに加えて、南方での取引記録にも全然出てこないようなので、史料的に全く裏付けがない。これに関しては都合の悪い史料は抹消したのだという陰謀論的な見解もあるようなのだけど、日本が都合が悪いから(悪いとも思えないが)消したとしても南方、タイ(シャム)やマカオなどにおける取引記録にも出てこないわけだから、それは確かなことだと言えるだろう。
https://x.com/mammal11111/status/1813816204576137502
弥助の記録については岡美穂子さん(東京大学史料編纂所准教授)がツイッターで連続ツイートされていたので参考になると思う。
https://x.com/mei_gang30266/status/1813072869787631644
https://x.com/mei_gang30266/status/1814196154126733343
https://x.com/mei_gang30266/status/1814269191253545082
https://x.com/mei_gang30266/status/1813714544474399183
https://x.com/mei_gang30266/status/1814260902033776843
https://x.com/mei_gang30266/status/1814257472280072288
史実における弥助はそうした存在だったわけだが、最近注目されているのは先に挙げたロックリー氏の著作が海外で評判になり、そのポリティカルコレクト性において注目されたということがあったようだ。