2.宮崎駿さんの「つまらない大人」観について:「つまらない」という言葉に現れた希望と重さ/「生活」の奥深さと「生活への憧れ」(04/15 08:04)


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4月15日(月)晴れ

昨日は何をやるのか考えて優先順位をつけてからやろうと思ったのだがなんだかあまりこれということを思いつかずに少し片付けをしたり本棚(主にマンガ)の整理をしたりして、夕方買い物と本屋を覗きに行ったが新しい本は買わずに帰ってきた。

夜は少しうたた寝をして12時前には床に入り、目が覚めたら5時だったのでまあまあ寝たかなという感じなのだが、どうも頭の緊張が取れなくてぐっすりという感じではなかった。そういうわけで寝床の中で生活の立て直し的なことを考えていたのだが、ふと「日常生活」というものを立て直す、というか取り戻す、みたいなことが大事、というかそういうことをしてみたい、ということに思い当たった。

起きてきて台所兼食堂みたいな部屋で食品類がうまくまとまっていないのを畳んでない菓子箱が積んであったのでそれを使って整理したり、テーブルの上を拭いたり、「日常生活」的なことを始めたら、これは結構大事なことなんじゃないかということに思い当たった。掃除をしたり、洋服を整理したり、そういえば子供の頃にいろいろしつけられたことがあったが、まあ生活が「荒れている」時にはいろいろそういうことが疎かになるわけで、一人で「生活」をする、ということは意識しないとなかなかうまくいかないことなんじゃないかと思った。

女性の方が少なくともそういうことはしつけられていることが多い(最近の人はよく知らないが)から生活がうまく回らないというのはメンタルヘルス的なものがある人以外は大体なんとかなっているのではないかと思うけれども、まあそういう生活の仕方をしつける人は普通は母親であるわけで、祖父母と同居していればおばあちゃんがより本格的なことをしつけたりすることもあるだろう。(これも最近は知らない。私の祖母は明治生まれで女学校を出ている人なのでまあいろいろうるさいといえばうるさかった)

まあそういう意味でいえば「生活」というのは本質的に「おばさん的」なものなのだよなとテーブルの上の食品を整理しながら片付け方のコツみたいな「おばあちゃんの知恵袋」的なことに頭が動くことを頭の動きを観察しながら思ったのだった。そういう意味での「生活」というものからは、男は本質的に疎外されている部分がある気がする。軍隊帰りのような人たちの世代は奥さんが死んで一人暮らしになってもきっちり掃除をしたりラジオ体操をしたりご飯を炊いたりして生活していたイメージがあるが、その後の世代になると「今日の仕事は辛かった、あとは焼酎をあおるだけ」みたいな感じになるところがある。

まあ、最近の人は違うよ、村上春樹のキャラクターみたいに「泥棒カササギ」をかけながらパスタを茹でるんだ、という人もあるかもしれないが、ああいう「生活」みたいなものにもこれはこれでなんというか歪みみたいなものを感じるし、ジャストの「生活」とはいえないんじゃないかという感じもする。「生活というのはもっと地味で、それでいて静かに充実しているもの」である気がする。

そういうことから言えば、フェミニズムのように女性をどんどんそういう「生活」から追い出し「社会」ですり減らそうとし、男性を「生活労働者」として放り込んで消耗させようという方向性はいずれも「生活」の静かな充実を奪っている極端思想である感じがする。人間として尊敬できる人というのは、仕事はともかくそういう「生活」がはっきり充実している人だと思うし、そういう意味ではネットで話題になった「たのしいピクニック」や「サイゼで満足する女性」というのは尊敬できる人たちだと思う。

太宰治の「生活」という「詩」(と言っていいかどうか)があるが、

生活。

よい仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも

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