1.研究とか企画とか家のこととか科学とか/「対話のレトリック」:「人間の目的は幸福である」というアリストテレスのテーゼをめぐって(12/09 08:10)


12月9日(土)晴れ

今朝も冷え込みはそれほどきついというほどでもないのだが、いろいろやることがあって早くに目が覚めた。まあ最近では4時なら早いという感じでもないのだが、うたた寝をしつつも就寝したのが0時ごろだったから、もう少し寝られた方が1日の感じとしてはうまく進行するということはある。

自分の研究のこととか、仕事の企画のこととか、そのほかにいろいろな家のこととかも出てきて、どれも考え始めると話が広がっていくようなものだから、順序をつけて考えを整理したり人に相談したりというようなことが結構いろいろある。

昨日は午前中は母を病院に連れていき、食事などしてから作業場の片付けと少しマンガなど読んで、図書館に出かけて面白そうな本を見ていたら、普段行かないような棚で面白そうなのを2冊見つけたので借りてみた。

講談社ブルーバックスの菅沼悠介「地磁気逆転と「チバニアン」」とD・ルーニー「世界を変えた12の時計 時間と人間の1万年史」(河出書房新社)なのだが、前者は磁石のことなど身近なところから最新の話題につなげていき、後者は時計と時間という観点から科学や技術が人間の文化に及ぼした利便性や時間や世界の捉え方といった問題に踏み込んでいるようである。単純に興味深いこともいろいろある感じなので時間のある時に読んでみたいと思う。

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「対話のレトリック」6章を読んでいるが、アリストテレスの「人間の目的は幸福である」というテーゼが面白いと思った。これはいろいろな意見を生むだろうし、多くの哲学者たちがこれについて考察してきたと思う。また多くの宗教家もそのことについて考察しその方法を述べてきたわけで、逆にいえばこの「幸福」という考え方の中に多くの哲学や宗教に通じるものがあるということになる。

幸福とは何かという考え方についても、アリストテレスの示すところは「徳を持った良き生」であり、生活が自足的であるとか、安定した快適さ、財産が豊かで身体が恵まれた状態でそれを維持し働かせることができること、としていて、その具体的な部分も子供が多いとか富や名声があるとか非常に常識的なところを示していて、なるほどそういうことが幸福の基準であると考えることはできるなと思う。

仏教やキリスト教ではそうした考え方を一旦はカッコの中に入れる(相対化する)わけで、そこにそれらの宗教や思想の独自性が表れてくるわけだけど、幸福の基準は人それぞれ、といってしまってもいいのだがそうではなく「人間の目的は幸福であり、幸福とはこういうものである」と断言することによって「明確な基準を作ること」そのものが重要であるのではないかと思った。

これは細かいことを言えばいくらでも反論できるわけだけど、最大公約数の幸福がこれに近いものになるだろうということにそんなに異論はない気がする。悟りが人生の目的だとか自己実現が目的だとかの考え方からそれを実現できることこそが幸福だという主張ももちろんあるわけだけど、幸福の基準を持つことで人生についての議論がしやすくなることは確かだろう。

これはつまりギリシャの幾何学で公理とか定理を定めたのと基本的には同じ考え方なのだと思う。もちろん現代においてはそぐわない考え方だと言えなくはないが、幸福の形は人それぞれだと完全に相対化し切れるかといえばそうではないところもあるわけで、そうなるとやはり最大公約数的な幸福の基準というのは考える時に大事になってくるということなのだと思う。

現代では幸福というと「宗教か?」と身構えられる、みたいな感じになっているけれども、「福祉」という考え方の背後にもやはり「幸福な生とは何か」という問いかけはあり、そこを大事にしていくことは重要だろうと思った。

この辺大事なのではないかと書いていて思えてきたのだが、時間がないのであまり展開できないので、また改めて考察したいと思う。

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