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梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』

ウェブ人間論

新潮社

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金曜夜に帰京。土曜日は疲労困憊していて日記を更新できなかった。ただ、金曜の夜に東京に戻ったときに地元の書店で梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』(新潮新書、2006)を買い、それを昨日は読んでいた。この本は最初の期待より面白い。かなり自分自身の深いところまで考えさせられた、自分自身の深いところに入っていくような本だった。

ウェブ2.0の旗手で1960年生まれの梅田と、文学界のニュースターで1975年生まれの平野。梅田は慶応工学部卒で東大院修了、平野は京大法学部卒。いろいろな面で対照的なのだが、人文社会系の「古い教養」を代表する平野の方がネット文化の強い支持者であり「新しい教養」の代弁者といえる梅田より15歳も年下だという「ねじれの関係」もあって、そのあたりに議論の深みや私自身の奥深いところをインスパイヤーする力があったのだと思う。

身体的に不調だったので一気に読みきれず、少しずつ読む。うちの鍵・ドアノブがおかしくなっていて10月ごろ修理を依頼していたのが昨日になってようやく注文が上がってきて昨日取替え工事をしたのだが、もう23年前に建った集合住宅なので特注になっていて、電気錠の交換で4万4千円もかかってしまった。年末に痛いが、気持ちよく鍵が開閉するようになってやはり交換してよかったなと思う。その工事に午後2時頃から4時頃までかかる。終了後、友人に電話して共通の友人の近況について少し話すが、その人自身が頭痛が激しくしかもこれから出かけなければならないという話だったのであまり話せず。

しばらく本を読んで、午後遅く読了。少し遅くなったが、体調がだんだん戻ってきたので出かけることにして、丸の内の丸善に出かける。少し気分が楽になっていたので楽しかった。

今朝もどうも調子が上がっていない。昨日『ウェブ人間論』を読んで考え始めたことが非常に自分の中で響鳴していてひとつの何かとして結実していく感じがない。反響し鳴り響き続けている感じがする。そこでまた甲野善紀氏の『隋感録』を読んで考えさせられたりして、切りがない。甲野氏はヨーロッパにいっての衝撃のことを書いているのだが、私自身もヨーロッパに行って非常に強く感じたのは、ヨーロッパには伝統が息づいているのに日本の伝統は先がなくなっている、ということだった。そこから日本の伝統に対する関心のようなものがスタートしたわけだし、甲野氏に関心を持つこと自体がそのあたりから始まっているのだが、古武術などを通して私などよりははるかに深く「日本の伝統」というものを探究してきた甲野氏に「もはや日本文化の炎は消え、僅かに炎の消えた後のマッチの軸木が赤くなっている程度のものを日本文化だと思っていたのが、外国に出て、それが炎の消えた後だということが分かってしまった」と書かれてしまうと、やんぬるかな、という感じになってしまう。

私などは、「どこか」にまだ日本文化は息づいていて、それを継承している人たちもいるんだ、という楽観的な部分もあるのだが、その「どこか」が「Somewhere over the rainbow」でしかないのだ、とまあそういうことをいっているわけである。まあそれはそうかもしれないし、それは深刻に考えすぎなんじゃないかという気もしなくはない。つまり、日本文化の基層というものをどのあたりに捕らえるかということで、雑木林は切り取られてもまだその腐葉土は残っているし、そこから雑木林が再生する余地はある、という感じを持っているのだが、もう完全に腐葉土も取り去られて赤土の上に近代文明が造成され、「緑ヶ丘」とか名前をつけられて伝統的な地名とも全く縁の切れた新しい「文明」が作られているのだ、という感じを甲野氏は持っているのだと思う。

そのあたりは、おそらくは「身体」に根ざしたものを基準に考える甲野氏と、そういう部分も踏まえながらかなりの部分は「言葉」に依拠して考えている私自身との違いなんだろうと思うし、どちらが正しい、というものでもないが、ただ甲野氏の感じた深刻さのようなものはやはり重大性を感じざるを得ない。このあたりのことは実は梅田・平野対談とも関係していることなので、エントリーを改めて書きたいと思う。

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梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』(新潮新書、2006)について感想を。

さて書くぞ、と思ってウェブにアクセスし、そういえば本人たちのブログでもはてなアンテナに登録しようと思って検索してみてみたら、二人ともかなりこの本についてコメントしている。さらに将棋の羽生善治や、いろいろなコメントも既にいろいろで出しているので、そういうものを読んでしまうと自分の書きたいことを見失ってしまう可能性があるので、急いで読むのをやめ、まずは自分の書きたいことを書くことにした。

しかし。先ほどのエントリーにも書いたが、(申し遅れたが下のエントリーを先に読んでもらえるとありがたい)この本は自分の人生観とでも言うべきものにかなり作用しているので、なかなかうまく書けない、書きにくい部分がある。しばらくたったら全然違うことを違う観点から書く可能性もある。それだけ、自分の中を流動化させているのだ。しかし、今の時点で感じたこと、考えたことを文章にしておくのはきっと無駄なことではないし、これを読んでくださった方もまた、そのような感じや考えにそれぞれの反応が起こればいいなと思う。そういう現象を共有していくことが出来れば、それこそが「この時代に生きている」ということの意味なのかもしれない。などと考えたり。

新書・文庫などを読む場合、私はページの角を折り曲げてそのページに重要なことが書いてあったということを記憶する手がかりにしている。単行本ではもったいなくてそんなことは出来ないのだが、文庫や新書は自分にとってある意味インタラクティブなメディアなので、自分の考えも書きとめておく、つまり教科書兼ノートのような役割も果たすことになるのだと思う。『ウェブ人間論』は20箇所以上折り曲げてあるし、部分によっては毎ページ折り曲げてあるようなところもある。読んだ感想をまだ全体的にまとまっていないところもあるので、まずはページを追って考えながら感想を書いていきたいと思う。

梅田は自分のブログが「自分の分身」だという。なるほどなあと思う。私は身辺で起こることすべてを書いているわけではないし、自分にだけ判るように書くこともあるから、それは感覚として分からないではない。というか、実は私の場合もそうなんだな、と思った。私の場合、いくつかのブログや日記を並行して書くことが多いのだけど、毎日更新するものはそのうちひとつだけになるのが普通だ。なぜかというと、それが一番「自分自身のこと」を書いているものだからで、そうでないものはそのうち面倒になってきてしまう、ということなのだと思う。それを自分の分身と呼ぶところまで私は考えてはいなかったけれども、実はそういうふうに「軽く言ってみる」ことでそういうことが分かるということはあるなあと思った。

『ウェブ進化論』を書いた理由として、思考を構造化したかった、ということを梅田は言っている。これはなるほどと思う。私はこういうブログの文章を書くときもそれなりに構造化して(あくまでそれなりにだが)書くことが多いのだが、これは逆に「ブログ的でない」ということは常に感じてはいた。しかしそういう変なものであればこそ読んでもらえる特性にもなるだろうと思ってそういう書き方をしているという面がある。というか、そういう書き方をしないと自分の書きたいようにかけないということに過ぎないのだが、しかし、そのように書いても本に核ということとはまた全然異なるわけで、本を書く技術としては、つまり技術的には『ウェブ進化論』は未熟なところが多いと思ったけれど、いわばそれは思考の構造化のためのある種の試行錯誤の結果ととれば、なるほどと思うところがある。そしてそれは時に、未熟であるが故の訴求力の強さというものを持ったりすることもある。もちろんそれゆえの誤解も当然招くわけで、ウェルメイドである方が安全であることは間違いないが、「計算されてないガゆえのメリット」のようなものもかなりあったのではないかと思った。

ブログで書くことで成長する、という話は『ウェブ進化論』で読んだときにはあまりぴんと来なかったのだが、自分なりに知っていることを書くとそれについて批判がなされ、その人とやり取りをしていくうちに未知の人と信頼関係が生まれ、ネットの背後の広がりを実感し、それが刺激になってさらに勉強する、というようなことを書いてあって、ああなるほどそういうことか、と思った。これはインターネットになってからはあまり実感する機会がないのだけど、パソコン通信の頃には私もはっきりとあった。なかなか同じテーマで同じように論じることの出来る人というのはおおくはないけれども、確実にいることはいる。そういう議論の進む推進力としてブログを書くことの意味はあるということだろう。それはつまり『サロン性』につながっていく。平野が、かつては一部の作家たちとか研究者仲間とかカフェの芸術家たちだけに起こっていたことが起こりえるようになったとコメントしているが、私の場合は残念ながらなかなかそこまでは行かないけれども、そういうことが可能性としては起こりえるだろうなと思う。

『ウェブ進化論』についてウェブ上で書かれたものを梅田がすべてチェックしているという話は驚いたが実は実感はあった。全部で一万以上の反応を読んだという。私はこのブログでも書いたしその文章を『読書三昧』の方にもアップしたけれども、私の文章が梅田自身の「はてなブックマーク」にブックマークされていることに気付いたときにはちょっと驚いたし正直少々ひるんだ。しかし梅田が真摯に自分の文章に対する反応を丹念に拾い上げているということを考えたときに、少々感動的なものを感じたのもまた事実である。それにしても一万というのは凄いな、と思ったけれど。

私自身、自分の書いたものに著者自身からレスをもらったことは何度かある。梅田からは直接レスをもらったというのとは違うが、ブックマークされたということはそれなりに何かを著者にフィードバックしインスパイヤするものがあったからだろうと思うから、それなりに「役に立てた」という嬉しさと光栄のようなものを感じていいのだろうと思った。それにしても平野の言うように「力業」であることは確かだが。(というか、平野という男、私より13歳も下なのになんだか言葉遣いが似ている)

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梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』。自分が感じたこと、考えたことの中で一番柱になりそうなこと。といってなかなかどのように受け取られるのか難しい面はあるのだが、少々未整理であることはお断りしたうえで。

私が読んでいてだんだん強く感じ始めたのは梅田と平野の「違い」なのだが、そのひとつは『人脈』の捕らえ方についてだった。梅田は人脈というものを結構功利的にとらえていて、それはもちろんビジネスの世界では当たり前のことだと思うのだが、その人脈のとらえ方に対して平野がやや強い拒否反応を示している。(p.57あたりのことだが)このあたりの捕らえ方が私は読んでいて漠然と「私」と「ある種の人々」のあいだにあると日ごろ感じている「ものの考え方の違い」というものと対応するように思えてきたのである。梅田は慶応工学部を出て東大の大学院を出ているが、その感じ方が「慶応的な人脈観」であると思った。一方の平野の感じ方は、「国立(大学)的な人脈観」だと思ったのである。平野は京大法学部を出た文学の若き旗手。つまりそこに、人間関係に「功利性」を見ることに対する拒否反応のようなものを見たのである。

もちろん人間関係に一切の功利性が存在しないということはほとんどないだろうし、逆に「友情」というものが全く介在しない人間関係しか持たない人は相当辛いだろうと思うから、どちらかだけということはないのだけど、人脈あるいは人間関係というものに功利性と精神性とどちらを見るべきかというようなコントラストがそこにはあるように思った。平野の考える人間関係は、「心の友」のようなもの、「ソウルメイト」といってしまうとまた別の話しになってしまうが、「本来『孤独な存在』である人間」がだからこそつながりを求める、という近代の荒廃した風景の中での何物にも変えがたいものとしての関係性をまず思い浮かべるのに対し、梅田には「たくさんいる友達や先輩後輩」とフランクにお互いに利用し利用されることでお互いに相手を益しあうことでともにうまくやって行こうという人間関係のとらえ方を感じるのである。

以前、就職戦線で慶応が圧倒的に有利、という話を「AERA」で読んだときに描かれていた慶応ボーイの就職に関する如才ないイメージがちょうど梅田の人脈観とつながって見えたのである。一方の平野は梅田が「まじめな人」と評し、「社会がよりよき方向に向かうために、個は何ができるか、何をすべきか」と思考する人であるというように、私も思う。そのあたりの思考は、私も小中高大と一貫して公立・国立を出ている(おまけに都立の教員でもあった)から、よくわかるし、その思考の枠から逃げ出しがたい部分もあるくらいである。

一方梅田は自分の考え方を「社会変化とは否応もなく巨大であるゆえ、変化は不可避との前提で、個はいかにサバイバルすべきか」を最優先に考える、という。そしてこの考えもまた、私自身にとってはじつによくわかる考え方なのだ。

どちらがより本源の自分(私自身)に近いかというと、実は梅田の方の思考なのだと私自身は思う。平野的な「まじめ」な考え方は、むしろ自己形成の過程の中で環境的に身についてきたものであって、身の丈にあっていないものを無意識のうちに常に感じていたのだと今では思う。

どちらが正しいか、ということは「ない」。しかし私自身は平野的な考え方を「正しい」と思い込んでか込まされてか、ここ数十年は思っていたことは事実で、特にこの十年ほどそういう呪縛が非常に強くあったと思う。この本を読んで自分自身について気がついたのは実はそういうことで、そういう意味で読んでいてどうも頭がふらふらしてしまうようなものを感じていたのだ。つまり、ある種の「洗脳」が解ける感じがしていたのだ。(もちろんこの洗脳に誰が責任がある、ということを言っても始まらないのだが)

この世の中を「ひどいところ」だ、と感じることは誰しもあることで、「だから世の中を変えよう」、と思うか、「だから何とか生き延びよう」、と思うか、どちらを選ぼうとそれは責められない気がする。そしてそれはどちらが「偉い」ということでもない。いや、私は今まで「前者の方が偉い」、という価値観を放擲できなかったからこそ、「洗脳」が解けなかったのだが。

共産主義の幻影が生きていた時代、「職業革命家」がノンポリ学生より「偉い」とされていたように、「社会を考え、あるいは国家を考える人間」は「一般人」より「偉い」、という感覚は今でもないことはないような気がする。「社会を変える」ということはもちろんほとんど不可能であることに挑戦するような部分があるから、「偉いなあ」とでも思ってもらわないとやりきれない、という部分は事実ある。しかし、世の中をよくしようとして、ひどい世の中をますますひどくしているのもまたそういう「社会を考え、あるいは国家を考える人間」だということも忘れてはならないのだ。平野的なまじめさはそういう意味で直ちにある種の危険性を帯びることも場合によってはあるわけで、「何とか生き延びよう」という側はそういうものを常に警戒している必要がある。

左翼、というものの劇的な瞬時の後退と崩壊は、現実にとっての無力性が明らかにされただけでなく、現実にとってむしろ有害であることが、阪神大震災やオウム事件によって明らかにされ、毛沢東主義のテロリストグループの暗躍や、北朝鮮の拉致の実態、社会主義国での権力の醜悪な集中ぶりやあまりにもひどい非人道性、チベットの実態や北朝鮮のコッチェビたちの実態が明らかにされてきたことが大きいだろう。

「社会を変える」という思想はまた瞬時に「人間を変える」という思想に結びつく。教育や自己批判などのシステムが大きくいって洗脳に結びついていくことはままあることだ。無論人間は成長していかなければならないが、「伝統」から遊離した人間は奇妙に偏った思想にかなり容易に取り込まれていってしまう。私が左翼的なものを嫌悪することの大きな部分は、そういう強制性にある。右翼性こそそういうものだという意見もあろうが、私はいわゆる「右翼」的なものというのはむしろ左翼思想の鏡像的なものとして生まれて来たに過ぎないもので、保守とか伝統というものはそういう原理主義的なものとはまた違うと思う。そのあたりも何段階もいろいろな仕掛けがあってそう簡単に弁別することは出来ないし、誰が左翼で誰が保守で誰が右翼なのか、あるいは誰がある外国の利益代表者に過ぎず誰が日本の将来をよりよい方向に導く人なのか、はっきり言うことは私にも出来ない。

で、このあたりの「世の中を変えよう」という人たちへの不信感というか、嫌悪感というか、そういうものが、私の中にあるジョン・レノン的なものよりポール・マッカートニー的なもの、ヘミングウェイ的なものよりフィッツジェラルド的なもの、ドストエフスキー的なものよりプーシキン的なものを選び、好み、愛するという心性と共通していることに読みながらようやく思い当たったのだ。

人間の自由というのはどこにあるのか。やりたいことをやるのが自由であるとしたら、そこで世の中を変えるのが自由なのか、そんなことと関係なしに自分の好きなことをやるのが自由なのか。自由のとらえ方というのは多分その二つがあって、私はやはり元来「好きなこと」派なのだと思う。ただ、教育の世界に身をおいてそのあまりのひどい荒廃ぶりに衝撃を受けて何とかしなければと頑張りすぎて精神的にも肉体的にも破綻するようなことになった。もともとがそういう向きでない人間がやるようなことではなかったのだが、教育は今なおどんどん壊れつつある。教育基本法が改正され、このあと学校教育法その他が現実的に断末魔のあえぎ声を上げている教育の崩壊にどこまで歯止めをかけられるのか、が問われているのだと思う。辞めてなお日本を何とかしなければという思考からずっと逃げられないものを感じていたのだが、この本を読んだことでずいぶん肩の荷が軽くなったような気がした。

結局世の中はひどいところだし、人はとにかくまず生き延びなければどうにもならない。流れの中で少しでもましな方向に自分の周りを変えて行こうと努力するのは尊いことだが、人間には頑張っても無理なこともある。そのときに一度流れから離れてもう一度どういうことが自分にとって可能なのか、あるいは自分がどう生きるのが本当は自分にとって理想なのかということをまっ更な気持ちで考えることは大事だと思う。

正直言って、しばらく、つまりここ10年ばかり、本当の意味でものを食べていて美味しいと思ったことはなかったような気がするし、女性を見て魅力的だと感じたこともなかった気がする。何をしていても心がどこか痺れた、麻痺したような感覚であったような気がする。昨日道を歩いていてふと横を通った女性に心が動いたり、どこからか流れてきた美味しいものの匂いに心が揺れたりしたとき、そんなことを思った。失われた十年とはよく言ったものだと思ったり。

うーん。これだけ書いてしまうと一番自分が書きたかったことは書いてしまった。細かい書評はたくさんあるのだけど。

あ、ひとつだけこれは書いておこう。梅田が関わっている「はてな」という会社は、「グ−グル」もそうなのだが、『スターウォーズ』がバイブルなのだという。梅田が「はてな」の取締役になるときに「通過儀礼としてスターウォーズのDVDを全部見ておいてくれ」といわれたのだそうだ。この話は相当面食らうものがあったが、つまり、現代のウェブを作っている最先端の人たちのメンタリティというもの、世界観というものは「スターウォーズ的なもの」であるらしい。つまり「こちら側」と「ダークサイド」の二分法で世の中を見ているようなのである。

私自身はスターウォーズ「体験」が「完全にゼロ」で、つまり情報として「こんなもの」らしいということを聞いているだけなので否定も肯定もできないが、というよりまあこういうところではあまり書かないようにしているが相当ネガティブな感じ方が自分のどこかにあるとは思うのだけど、まあそういうことだから偏見は相当あると思う。あまりに単純化された見方ということで「ばっかじゃなかろか」と思うところがゼロとはいえない。ただ、私の中にはやはり世の中を「明るいもの」と「暗いもの」と分けてみる見方というのはスターウォーズとは無関係に存在するので、ある種の共感を覚えるところもないことはない。ただ何が明るくて何がダークサイドなのかと感じるところは違うし、グレーゾーンとかトワイライトゾーンとか陽だまりとか雲の絶え間とかまあそういうところに魅力を感じたりもするわけで、こっからそっちはダークサイド、みたいなシンプルな見方は微笑ましいというか、やはりあほらしいと思うところはなくはない。

梅田がはてなの会議で「やはりリアル(ネットに対する)は凄い」と発言したら、「ダークサイドに堕ちてますよ!」と一斉に言われたのだという。「ロングテールの頭に行ってしまったんですね(『ウェブ進化論』が売れたから)」というのも可笑しいが、なんだか微笑ましいというか、「で、ダークサイドって何?」的な感じがした。

まあ世の中の微妙な陰影を理解するようになることが成熟と言うことだという見方からすればまあどうしようもなく笑止なわけだが、その無邪気さがパワーになっているという面もあり、まあこのへんは肯定も否定もしにくい。ただ、本当に自分たちの好きなことだけで無限の可能性を追求しているということはある意味羨ましい。(12.17.)

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昨日。ずいぶん時間をかけながら『ウェブ人間論』の感想を書いてアップしたのだが、今朝見ると早速著者の梅田氏自身のブログで取り上げられていて、驚いた。発売すぐの書籍を読んで感想を書き、それがその日のうちに著者の目に止まってレスポンスがあるとは、まったく凄い時代になったものだと思う。

いろいろ書いたり読んだりしながら思ったけれども、ウェブの進化というものは「人間の生き方」というものに否応なくか主体的にかは別として、変化を促すものであることは確かだと思った。今まである程度のパターンにしたがってしか生きられなかったものが、工夫次第では本当にさまざまな「生き方の可能性」が生まれてきているのだと思う。私なども昨日も書いたが古い枠にどうしても囚われているところがあって、それを一つ一つ打ち破っていくのはかなり面倒な作業なのだが、もはや40代とはいえこのような面白い変化の時代に生きることが出来ているのは確かにラッキーなことだと最近思えるようになってきた。そこには、やはり梅田氏のメッセージが生きているんだろうなあと思う。

一方では、インテリジェンス的な、情報戦略的なものの意味も今後もっと高まっていくだろう。しかし、梅田氏のグーグルに対する考察などにもあるように、既存の社会における価値自体がまた大きな変容をきたしている可能性もあるこの時代において、何を守り何を推進するための「戦略」なのかということも気がついたら変わっているということもあるかもしれないと思う。タコツボ的に一つのことをやっているうちに世の中に出てみたら既に浦島太郎になっていた、というようなこともまま起こる気がする。わたしが教員をやっていた10年間に、一般社会はなんだか全然変わっていた、本当に置き去りにされた気持ちになったのを思い出す。1999年。

ブログなどを拝見していると梅田氏は将棋が強いそうで、将棋関係のコメントも諸所でされているようである。わたしは将棋は並べることができる程度だが、棋士の書く本を読んだりテレビで対局を見たりするのは結構好きで、そういう形での興味は持っている。何というか、梅田氏の「読み」の深さとか「サバイバル性」のようなものは「将棋」という狭義の持つ性格と関係があるのではないかという気がした。まあ、これは余談。(12.18.)

  

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