村上春樹
Posted at 07/02/11 PermaLink» Comment(0)» Trackback(0)»
[本を読む生活に掲載したもの]
村上春樹『海辺のカフカ』2006.9.2.
村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』2006.8.23.
村上春樹訳『グレート・ギャツビー』2006.11.27.
村上春樹『スプートニクの恋人』2006.4.16.
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』2006.4.20.
村上春樹訳『マイ・ロスト・シティー』 2006.12.11.
村上春樹『レキシントンの幽霊』 2006.4.15.
[村上春樹関連ページ]
「村上春樹恐怖症」
「村上文学の世界性について」
(「内田樹の研究室」より)
[英文]
Haruki Murakami:The Official Website
(感想)村上春樹について、インターネット上にまとめられたものは個人による少数の例外を除いてほぼ皆無といってよいようだ。これは三島由紀夫などについての語られ方に比べて突出した現象であるように思われる。「W村上」と称される村上龍に比べても圧倒的に少ない。むしろ英文の方がより充実しているような印象さえ受ける。というか、これは印象ではなく事実であろうと思う。
村上に関する情報がネット上にあまり出ていないのは、日本の批評家があまり村上を評価していないことは内田樹の「村上文学の世界性について」に書かれている通りだ。しかし、村上文学を読んで成長した世代が本格的に批評や編集の中心を形成するようになってくれば、その傾向は大きく違ってくるに違いない。
しかしネットというのは発信型のメディアなので、ある意味典型的な職業作家である村上春樹が書物という形以外の場であるネットに多く顔を出そうという意志がない以上、群盲象を撫でるのたとえどおり、村上はネットにおいてはあたかもゴドーのようにただ語られる存在に過ぎず、ネットの上での実在としてたち現れてくることはないだろう。(Mixiで語られる村上像は肉体のない偶像のように感じられる。ある種の信仰の対象である。)それは私のように主にネットの上で表現しているものにとっては隔靴掻痒の感はあるのだが、逆にその事によってリアルや活字の世界の重みというのを否応なく感じさせられざるを得ず、世界感覚を失わないためには有効なことなのかもしれないと思う。それは私の個人的な感想に過ぎないが。
しかしやはり、村上は「日本」に背を向けている部分があるのだと思う。もちろん日本語で表現している以上、そして彼の読者の重要な部分が日本人である以上、完全に背を向けているわけではないしそうできるはずもない。だが、ある意味壁の向こうのひとりごとや、喫茶店の隣の席で話している声が聞こえてくるような感じでしか村上の息遣いは感じ取れないところがある。時に非常に親密に感じるときがあっても、少なくともそれは常にではないし、そのこと自体が村上のある意味での日本に対するメッセージであるのだと思う。