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村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編

新潮社

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村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第一部泥棒かささぎ編』(新潮文庫、1997)を読み始める。これは(この文章を書いている)現時点での感想を書いておこう。今110ページまで、「5レモンドロップ中毒、飛べない鳥と涸れた井戸」の途中。『スプートニクの恋人』の感想にketketさんが反応してくださったが、やはりなんともいえない違和感を感じる人はいるよなあ、と思う。『ねじまき鳥』もまた、奇妙な身体的不快感がある。胸がむかむかする、というような。しかしこの小説には奇妙な勢いがあって、読んでいて途方にくれるというより、あっけに取られる。ずいぶん強引に、知らないところに連れて行かれる感じがする。

物語の登場人物たちは、最初はそこにいるのが当たり前のような顔をして(つまり匿名性の高い一般の人間のような顔をして)小説にでてくるのだが、読み進めていくにつれてどんどん変な人たちだということがわかってくる。そこにはある程度普通な「変」さもあるのだが、あまり普通でない変な人物たちも出てきて、しかし、実際にはこういう人間は自分の周りにも結構いる、ということに気がついていくイヤさ加減というのは一級品である。

しかし、小説で「狙って」変な人物を登場していることはよくあるのだが、たいてい破綻して読むに耐えなくなるのだけど、村上の場合は世界の統一性が実に堅牢で崩れない。世界のバランスが保たれているのである。奇妙なバランスではあるのだが。しかしいずれ、バランスは崩れ、アッシャー家のように崩壊してしまうのではないか、という感も持つ。しかしおそらくは、この崩壊状況はそんな簡単には訪れない。ことによると崩壊が起こる前に崩壊自体が不全化して「アンバランスが取れている」(昔よく言った冗談だ)中途半端さで停止するのかもしれない。

われわれのすんでいるこの世界も考えてみれば相当奇妙なバランスの上に立っている。村上を読んでいるとやはりそれに気がつかざるを得ない面もあって、その掘り下げたり積み上げたりする力の強弱が村上作品の個々の評価につながるのかななどと考えてみたりする。

奇妙な人物の一人にノモンハンの生き残り、という人物がいて、当時の日本陸軍の惨状が描写されているのだが、「目の前が河なのにその前にソ連の戦車が陣取っていて水が飲めない」という情景は今読んでいる『ノモンハンの戦い』の地図を思い浮かべればこれも肉体的に看取してしまうことで、この砂漠のような場所での戦いでの日本側のロジスティクスの弱さは致命的だっただろうと思う。七月の戦闘では日本が先制して先に河を渡り、河の向こう側での戦いになったので、水の補給などはそこまで深刻視しなかったのかもしれない。いずれにしても、「準備不足」は否めない。戦争が臨機応変で臨まなければならないのは当然だが、「準備」が欠けていることがいかに致命的か、と思い知らされる。『日の名残り』の執事スティーブンスの周到な準備計画と獅子奮迅の働きぶりが思い起こされる。(4.20.)

昨日はあいた時間は村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』をずっと読んでいた。いろんなことを考えた。実に、いろんなことを。あんまり考えすぎてそれについて書くことは難しい、少なくとも今は。

昨日は午前中はかなり強い雨が降っていたのだが、昼間には嘘のように上がり、強い陽射しがやってきた。晴れると、春というよりもう初夏だ。雨が降ると、早春だ。私は気づかなかったのだが、今朝は少し雪がちらついたのだという。私も今もストーブをつけている。でも晴れると、そんなことはみんな嘘のように思える。

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編

新潮社

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午前中に第1巻を大体読み終わっていたので、仕事に行く前に買っておこうと思って、昼食後に駅前の書店に出かけて『ねじまき鳥クロニクル』の第二巻と三巻を買った。一巻はないのに、二巻と三巻がそこにあるのは、前から知っていたが、先週から売れていなかったのだ。もちろん一巻がない小説の二巻三巻を買うなんていうのは偶然そういう自体になった人がいなかったらいつまでも売れ残ったままになっただろう。だからちょうど、村上春樹的な言い方だが、ジグゾーパズルのちょうどよいピースが見つかったのだ。私にとっても、書店にとっても。

一度家に戻ってきて一巻の残りを読み進めた。読み終わったのは仕事の後だったが、そのまま二巻に入り、読むのが止められずに午前二時半まで読みつづける羽目になった。

朝起来たのは7時過ぎだったが、なんとなくいろいろなことを反芻して、直ちには読みはじめなかった。渇きに近いくらい読むことを欲していた。そんなことは久しぶりで、小説では荒俣宏の『帝都物語』を読んだとき以来かもしれない。東京にいるときは時間があるのだが、こちらにいるときはいつも時間がないので、そんな贅沢なことは出来ないのだ。しかし、時間が区切られているからこそできる、あるいはわかることもある、ということはある、のだと思った。

朝食の後ちょっと農作業の手伝いのようなことをする。耕運機を上の畑に上げるのを加勢したのだが、一度転んでしまったらエンジンがかからなくなってしまった。道の途中で止まったままになっている。一番大変なところは乗り越えたから、後は大丈夫だと父は言うのだが。

今、ちょうど『ねじまき鳥クロニクル』の第二巻を読み終わったところだ。今はここまでの感想を書く気がしない。というより、あまりにも散らばっていて、文字にできるようなことではない。でもまあ、今は読み始めたときより、少し幸せになっている気がする。(4.21.)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編

新潮社

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『ねじまき鳥クロニクル』を読み進めたが、あまり進んでいない。といっても3巻の半ばまで行っているので、思ったより読んだというべきか。新しいキャラクターが登場して最初は何事かと思ったが、今のところ物語はひとつにより合わされたように思える。しかし、何かが起こりそうな予感のようなものが続くばかりで、そこに至るまでの道にまっすぐには続かず、いろいろなところを掘り起こしているような感じ。この中盤からの息の長い感じというのが、何だかすごいなと思う。いわゆる現代小説の長編で、この物語の快感というものにとらえられたのは初めてではないかと思う。大体数行、あるいは数ページでそれ以上読み進める気にならず、面白くなくなって読み止めることがほとんどだった。石原慎太郎『弟』とか、事実をもとにしたフィクションなら事実に対する関心があるから読み進められるが、物語の中の出来事に事実と同様の関心が持てるということ自体が極めて久しぶりであるような気がする。というより、おそらくは数十年の間、そういうことはあきらめていたのだ。しかしまあ、世の中も文学も、捨てたもんじゃない、と思った。それは、私自身にとっていいことなのだと思う。(4.22.)

『ねじまき鳥クロニクル』を、福田和也はどのように評価していたっけ、と思って『作家の値打ち』を読む。「これまでで最長にして最大の問題作。」とある。え?問題作?どこが?「発表時多くの評者・読者を戸惑わせ、いまだに戸惑わせている。」何で?そのあとの評語は省略するが、むしろその批評を読んでこっちが戸惑った。96点と言う評価は妥当(最高点)だと思うが、単純に評価できる作品でない、と言うことらしい。こっちが驚いた。何が問題なのだろう。確かに満州国の評価に問題が無いとは言わないが、それはいわば思想的なスタイルの問題で、プロレタリア作家がブルジョア文化を肯定的には描けない、と言うまあ立場とかスタイルから来る現実的な縛りに過ぎず、描かれていることはもっと人間的な真実の部分に到達していると思う。逆に中国人やモンゴル人、あるいはロシア人の描き方に反発を感じると言う人もあろうが、それもまた同じことである。村上が描こうとしているのはそんな表面的なことではない。

ネットでいろいろと批評を見ているうちに、自分の中でのこの作品に対する考えがだんだん見えてくる。この作品はアンジェイ・ズラウスキ監督の『狂気の愛』(原作はドストエフスキー『白痴』)に似ている。『狂気の愛』をシネヴィヴァン六本木で見たときはもう感動と言うか興奮と言うかで一杯だったのに、同時にエレベーターに乗ってきた女性は涙を浮かべんばかりの勢いで映画を罵っていた。ああ、この映画のよさを分からん奴もいるんだなあとそのときはびっくりしたが、世の中そんなものかも知れぬ。

『ねじまき鳥クロニクル』は性描写が多く、暴力シーンも多い。多分抵抗を感じるのはそういうところなのだろうと思う。しかし、セックスのためのセックスでなく、暴力のための暴力で無いことは明らかで、人間性の根源に近いところを描こうとするとこうなってしまう、というか性とか暴力とか言うものは人間にとっていちばん深いところに――それこそ深い深い井戸の底に――あるものだということが語られているのだと思う。そのほか、「予言」とか「癒し」とか、今日的な問題が複雑に絡み合って取り上げられていて、いや実際、こんなに面白く刺激的にも小説と言うものは書けるのかと私は仰天しているのだが、ネットの評語を読んでいると逆の意味で仰天する言がいろいろでてくる。 「どこで面白くなるのかと思ったらどこまで行っても面白くならない。」え?最初の「泥棒カササギ」を口笛で吹きながらパスタを茹でているところに妙な女から電話がかかってくる出だしからして既に面白くないか?確かにある種の臭みはあるが、まあそれは村上テイストだと思って我慢するしか無い種類のものだろう。「6年間も一緒に暮らしていたのに花柄のトイレットペーパーが嫌いなことに気がつかないはずが無いから描写が不自然だ。」え?そんなこといくらでもないか?ちょっとした事が露見してそこから男女の仲が崩壊していくなんてことはあまりにありふれているというならまだ分かるが。しかし大体この描写はある種のメタファーであって、その背後に何を言わんとしているかを読み取るしか無い種類のものだろう。まあそういう意味で言えばこの作品は予言と暗喩に満ちていて、そういうものが苦手な人にとってはアレルギー的な反応をおこす種類のものかもしれない。

しかし現代芸術というのはそういうものじゃないのかな?そのようにしてしか語りえないものを語るのが現代という時代において小説を含む芸術に課せられた使命なんじゃないかと私などは頭っから信じて疑わないのだが。でなければカフカや安部公房をいったいどのように読もうと言うのだろう。この作品を含めて、村上春樹の作品と言うのはもっと大きい声でその面白さを訴えていかなければならないものなのかもしれない。

私自身にとっては、こんなにリアリティに富んだ作品は逆に今までになかった。もう想像できないくらいリアルで(笑)、出てくる警句も――良いニュースは小さな声で語られる、とか、想像してはいけない、想像することはここでは命取りになるのだ、とか――もう全くその通りだなと思ってしまう。いったいどこまで深い井戸の底に村上春樹は降りたのだろう。

ノモンハンだって動物園だってシベリア抑留だってある意味メタファーだ。それらの描写がが事実と言う意味では不正確かもしれないと言うことは、かなりはっきりと作中で暗示されている。(ネタばれ防止のために限定された表現になっています)それらは「村上と言う井戸」の底の世界の話であって、「事実は必ずしも真実ではなく、真実は必ずしも事実ではない」。

いずれにしても、私自身もこの作品について語るにはまだあまりに時間が足りないようだ。長い時間をかけてこの作品のことについて考え、思い出し、気付き、組み立てていくことをしなければ、この作品はつかみきれない。この作品のさまざまな登場人物は、いろいろな意味で私自身と重なる部分を分有している。子供のころから「痛み」と言うものから逃れられなかった、という人物が出てくるが、私も小学校高学年くらいから高校にはいるくらいの頃まで――今考えればそれが思春期というものか――いろいろな痛みから、特に頭痛から逃れられなかった。他の人が自分と同じようには痛みというものを感じていないのだということを知ったときは驚いたし、痛みの無い世界では人はどのように何を感じるのだろうと不思議に思った覚えがある。

私の場合は半年くらい病院を回って割合単純な病気が原因だったということが分かり、それについては嘘のようになくなったのだが、いろいろな痛み――主に心の面での――はそれからも手を変え品を変え表れてきて、まあある意味そういうものに慣れてしまったりはした。ま、そんな感じでいろいろな登場人物の語る自分、あるいは描かれた事物に、自分や自分を取り巻くものたちが見出せる部分が実に多かった。しかし、村上の描写が助かるのは、登場人物、特に主人公が相当明確に自己というものを持っているために、私自身が必要以上に感情移入をしなくて済む、というところにある。つまり、登場人物が「私」そのものになることはなく、「どこか遠いところで行われている実験」を見ているだけで済むのである。そういう意味ではドッペルゲンガー的な構造が最初から織り込まれていると言っていいのだろう。ただ私自身が心理的な混乱のさなかにあったときにこの作品を読んでいたらいったいどんな目にあったかはわからない。

まあそんなこんなを考え合わせていくと、この作品は構造的にも相当複雑だし、語りかけられてそのままになってしまったモチーフも少なからずあるように思う(私自身はそういう未発の可能性が多く含まれた作品というのは愛すべきものだと思うのだが)。そのあたりが嫌な人には嫌なのかもしれないなと思えてきた。(4.23.)

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