食べるという義務/猫は分けられない

Posted at 10/03/19

今日は起きた時から少し腰がおかしくて、やばい、ぎっくり腰を起こしかけているなと思った。朝は職場まで歩いてごみを捨てに行き、帰ってきていろいろやっているうちにそういう感じが強くなってきた。朝食を食べてからでかける。ちょうど整体の日だったので、よかったなあと思いつつ操法を受ける。結局、「余分に食べてますね」とのこと。確かに、プレッシャーなどで気分が重い時はそれを乗り越えようとして食べ過ぎてしまうし、最近のように気分がましになってくるといい気になって食べ過ぎてしまう。実際、若いころから「食べる」ということに気持ちのコントロールを頼り過ぎてきたから、そのつけが今出ているんだなと思う。

「どうしたらいいですかね」とつい間抜けな質問をしてしまったら、先生はしばらく考えて「ゆっくり、楽しんで食べてください」と答えた。後で考えてみたら恥ずかしい。食べ過ぎているなら食べ過ぎなければいいだけのことなのに。それでも先生の言葉や自分の状態をつらつら考えてみるに、舌や胃袋で食べるというよりも、目の前にあるものをかっ込んだり、どれくらい食べたいかということを体で感じるより目の前にあるものを「片付けよう」という意識が先に立ったり、つまり頭で食べていて口で楽しんで食べてないなあということは思った。なんというか、あるもの、出されたものは食べなければ、という強迫観念が私にはあって、だから私には冷蔵庫の中がものがいっぱい入っているというのはすごく気が重いことなのだ。「食べる」ということが「義務」になっているというのもなんだか変な話だが。

だからきっと大事なことは、「食べるという義務」から解放されることなんだと思う。そうすれば、本当に食べたいものを食べたいだけ食べられるようになるんだろうと思う。その量が、若いころほど多くないのは当然のことだ。私は、いろいろなことを自分に義務付けるのはわりと得意だが、義務付けたものを外すのはあまり得意ではない。ただ、それが自分が義務化してしまっているということに気がついてもいないよりは、気が付いているだけましであることは確かだ。「食べないと死ぬ」とか「食べないと動けない」という強迫観念は大分外れたが、「食べることは義務」という強迫観念が外せれば、もっと楽しく食べられるようになるだろうなあと思う。

母が操法を受ける待ち時間に道場にあった野口晴哉『碧厳ところどころ』(全生社、1981)をぱらぱらと読んだ。禅の本は、『無門関』『臨済録』は読んだことがあるが、『碧厳録』は長くて難しげな感じで結局読んでいない。中には「南泉斬猫」だとか有名な話がいろいろ出ていて、一度読もうと思ってはいたのだが歯が立たない感じだった。

しかし今日は野口の筆によって語られている『碧厳録』の内容に、そうか、こういうことか、と思うようなところがあり、少しわかったような気がした。ひとつひとつ、考えながら読み直してみると、いろいろ面白いかもしれないと思った。

それで、帰ってきてから昼食を食べてぼーっとした後、図書館に出かけて『碧厳録』の解説とか講述の本はないかと探してみたら、戦前刊のものがいくつかあって、閉架書庫から出してもらって3冊ほどぱらぱらと読んでみた。するとものによってはかなり詳しく解説されていて、そうかそういうことだったのかと霧が晴れてくるような思いがした。禅というのは不立文字で、文字によって伝えられないことを伝える、と言っているのだけど、結局それをこういう形で皆が解釈して文字で書き遺しているので、仏教の中で最も文字が多い宗派だという話もある。しかし肝心なことは相手のいうことが「わかる」ということであって、それは言葉で表す以前のことなのだ、ということになる。本質を見抜ける人には一言で、あるいはわずかな動作で伝わるが、鈍い人には百万言尽くしても伝わらない。そういう世界というのは、やはり少し憧れるところがある。

自分が何が書きたいのかというと、この「本質を見抜く」世界のことなのか、鈍い人はともかく理解しようという志のある人に対してある程度かみ砕いて伝える「啓蒙」の世界のことなのかということについて、いつも迷っている感じがある。商売になる需要があるのはどうしても啓蒙の世界になるのだし、私はそういうことを言ったり書いたりするのが嫌いでもないしまたある程度は得意でさえあると思うのだけど、そればっかりやっているとやはり何か違うなという気がしてくる。本質に触れるということがいかに楽しいことか、ということを、野口の本を読んでいるとよく感じる。そして今まで気がつかれなかった本質を、この人間の世界に少しでも加えられたらいいなあとも思う。

書きたいことはおとぎ話ではなく、「本当のこと」なんだと思う。別に読む人に迎合する必要はない。そう思うのだけど、書いているうちに、「わかりやすく、わかりやすく」と考えている自分もいる。いったい誰にわかりやすくなのか、ということも分からずわかりやすく書いていると、やはりどこか文章が卑しくなってくる気がする。

野口は、達磨は天才だが、趙州は俗物だ、というようなことを言っていて、天才は鈍い人間を相手にするのが耐えられないから、九年も壁に向かっていたのだ、という話は面白かった。また、趙州が「祖師西来意(達磨大師はなぜ中国にやってきたのか)」と聞かれて「庭前柏樹子(庭の柏の木だよ)」と答えた、その答えは分かりやすすぎ、格好良すぎるということなのだと思うが、趙州を(いい意味で?)俗物だ、と言っているのだなと思った。まあ私なりにこの答えを解けば、達磨が中国にやってきたのは、庭の柏の木がそこにあるように、自然なことだったのだ、ということなんだと思う。そう考えると確かに、ちょっとわかりやすすぎる気もしないではない。

でもまあ確かに、禅の言葉というのはこういう風に、ある言葉をとらえて「本質」を伝えようとするものだ。その伝えようとする意識に、「天才」は無頓着で伝わるやつに伝わればいいと思っているけれども、「俗物」はけっこう懇切丁寧に伝えようとする、ということなんだと思う。「天才」が伝える相手はおそらくは同じような「天才」か、あるいは相当努力した「秀才」であろうと思われるが、「俗物」は熱心に皆に分かるように伝えようとする。そういう意味では私は「俗物」であるなあと思う。

「天才」の伝え方のよいところは、びんびんと「わかる」者にだけに正確に伝わっていくだろうということで、劣化していくことはない。これは言葉を変えていえば、名人から名人への芸の相伝のようなものだ。名人といわれる職人は無口だというけれども、確かに言葉では伝えられないところがあるという点では、天才の気の短さと相通じるものがあるということなんだろうなと思う。

その点、「俗物」の方は一見親切に見えるけれども、中途半端にしか伝わらないものが多く、ストレスもあるし、また逆に伝えることが営業となってしまって、親切が身過ぎ世過ぎになっているという面もある。まあだからこそ「俗物」であるわけだけど。

やっぱり自分のやってることがそういう俗物的な方に傾いていたというのはどうしてもある。人に対して甘くする分、自分に対しても甘くなってしまうというのが人間の悲しさでもある。

「祖師西来意」の答えとしては、趙州の答えが決定版だとされているが、別の答えもあって、名前は忘れたが同じ質問をされて「お疲れだったでしょうにね」と答えた人がいるといい、これはこれで何かいい。つまり、考案の答えというのは一つではなく、またその答えはその人の人柄や人生が反映したものでなくてはならないんだなということが分かった。気の利いた答えを言えばいいというものではないのだ。私はどうもそういうものとして禅をとらえているところがあったなあと思う。つまり知能ゲームの一種として。だからあんまり興味がなかったのだが、自分の全身全霊を代表するような一言をのんきにぽんと出すところに禅の醍醐味があるのだなあということを思った。

あと『碧厳ところどころ』で印象に残ったのが、有名な「南泉斬猫」という話。三島の『金閣寺』のネタにもなっているが、ニュアンスが少し違う。(このことについては4年ほど前にこちらに書いている)禅寺内で二つの僧侶のグループが一匹の猫を巡って争う。争った内容は、「猫に仏性があるかないか」という内容だったが、それを「猫のとりあい」だと見る向きもある。その騒動に南泉(という偉い坊さん)がでてきて、「言い得れば助けるが、いいえなければ斬り殺す」といったが、誰も答えられなかったので斬り殺した、という話だ。

野口の解釈は、南泉が言いたかったことは「命は分けられない」ということだったのだ、と私は解釈した。命は分けられない、というのは確かにある本質を指している。猫を切って分けてしまえばもう「猫」ではない「猫の死体」である。「命は分けられない」と言ったらそんなことはないプラナリアなら分けられる、という人がいるかもしれないのでより正確にいえば「猫は分けられない」ということである。猫は分けられない。犬も分けられない。人も分けられない。「もの」は分けられる。ということは、「分けられるか否か」ということが「いのち」というものの本質なのかもしれない。饅頭は分けられる。クリスタルのシャンパングラスは分けられない。しかし考えてみたら、猫をかわいがりたいのではなく、猫を肉として食べたいのなら(中国には猫料理もあった)十分分けられる。その場合猫は「いのち」ではなく「もの」である。「仏性」が「いのち」であるとしたら、猫は「仏性」があるとも言えるし、ないとも言える。「猫は分けられないが肉は分けられる」それが本質である。

と投げ出すのが天才の(いやこれだけ縷々説明したらすでに俗臭芬々だが)常套手段だが、このときいなかった南泉の弟子のやはり偉い坊さんである趙州が帰ってきて南泉がこの話をすると、趙州は頭に沓(くつ)を載せて出て行ったという。南泉は「趙州がいれば猫を斬らずに済んだのに」と嘆息したというが、このあたり趙州の面目躍如で、スタンドプレーも甚だしい。まあ要するに本末転倒というか、ばかばかしい話だという表現なんだろう。趙州がいたら何と答えたかは想像するしかないのだが、猫を斬らせてしまった寺の僧たちは衝撃を受けただろう。受けなければ意味がないが。まあつまりは、猫は仏性有りや無しやといった空理空論の対象ではなく、生きている命なんだということで、つまりは「猫は分けられない」ということなのだ。ああ説明すればするほど自分の俗物性に自己嫌悪が起こるな。

まあそれはともかく、この話のことを考えていて、「大岡政談」の中のエピソードを思い出した。子供を巡って二人の母親(実母と養母?)が争うという話で、大岡越前守は「二人で子供の手を引っ張って取り合い、勝ったものの訴えを認める」といい、引っ張り合いをさせて、痛がる子供の声に手を離してしまった方に「子供はお前のものだ」というという話だ。これはネットでみると聖書のソロモン王の逸話からの焼き直しだということだが、「南泉斬猫」と共通するテーマだなと思った。つまり、「子供は分けられない」というのが本質なのだ。両方で引っ張るという行為は、南泉が猫をぶった切るのと同じで、馬鹿げたことである。自分のしていることの愚かさに気がついた方が「本当の母親」だということで、「この勝負に勝てばこの子は私のもの」と思い込んでいる、思いこみの虜になっている母親は得るべきものを得られない。子供はなぜかわいそうかというと、痛がっているからだが、それはつまり「子供は分けられない」ということである。子供が分けられるなら、痛がらないだろう。

つまりこれは単純に読めば「親は子供を思うもの」とか、もう少し深読みすれば同情心を持つことは自分を益する、「情けは人のためならず」とかいうことになるが、もっと深読みすれば問題の本質を理解する智慧のあるものは、智慧の足りないものに勝るということでもある。智慧といってもこの場合頭で理解するものではなく、言葉にならない本質を理解しているということである。

なんというのかな、「猫は分けられない」というのはあまりにも本質であるのだが、字にしてみるとこれだけばかばかしいテーマもないわけで、しかし人が迷いつつ生きているとそんなことも分からなくなるということでもある。大体私の書いているようなこともきっとほとんどがそういうことなので、声を大にして「猫は分けられない!」と叫んだところで「それで?」というか「猫は分けられませんが何か?」みたいな反応しか期待はできないようなことなんだろうと思う。

しかし実際のところ、最近私が面白いと思うのはほとんどそういう次元のことになってきているので、字面だけ読んでいたらほとんど「ハア?」という世界だろうなあと思う。こんなものを読んでくれる奇特な方が毎日500人もいるということは、それだけで世の中捨てたもんじゃないよなあという気もする。

図書館で『碧厳録』の解説書を読んでいるうち、くしゃみが出て咳が止まらなくなった。古い本はこういうことがある。読みたかったのだが体調に悪影響が出るのも困ったものだ。

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