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三島由紀夫『金閣寺』

金閣寺

新潮社

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三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫、1960)を読み始める。金閣寺炎上という実在の事件を扱っているということで、今まであまり興味を持っていなかったのだが、『福田和也の「文章教室」』(講談社、2006)で取り上げられていて読んでみる気になった。まだ1割も読んでいないが、豊富なエピソードが溢れていて、三島というのは才能のある作家だと改めて舌を巻く。海軍兵学校に入った凛々しい先輩の美しい軍刀の鞘を傷つけるエピソード。海軍の脱走兵を匿った有為子という女性が銃撃戦の末に二人とも滅びてしまうエピソード。

三島は耽美的な作家だと思ってはいたが、それだけではないのはどこなのだろうと思ったのだけど、今確認のために福田の『文章教室』をちらっと読むと、「滅亡するからこそ美は成り立つ」というのが彼の美学だ、ということを書いてあって、積極的に美に関わろうとすることは美を滅ぼすこと、あるいは美を陵辱することに他ならないということを言いたいのだと理解した。しかし、考えてみたら自ら手を下さなくてもいずれ美しいものは滅びるわけで、そこにも確かに美は現前するはずなのだが、三島は自ら手を下して美を陵辱することを選択する。それは、天国はハルマゲドンの後に実現するという『黙示録』を逆読みし、ハルマゲドンを起こすことで天国の実現を早めようというアメリカのエヴァンジェリストやオウム真理教と似た発想が感じられ、そこに「テロリズム」=「至高の存在のための破壊」という等式が成り立つことになる。三島は最終的にそれに殉じて死んだわけだが、耽美派の穏健派とか急進派とか言うのがあるとしたら、三島は耽美派の急進派、あるいは過激派の走りなのかもしれないと思った。少なくとも日本右翼に三島は美的なヴィジュアルを持ち込んだといえ、「滅亡するからこそ美は成り立つ」というある種の観念論が保守派全体を支配することになるとそれはそれで危険だなあとは思う。

まあしかしそういう政治的なことを離れて三島の文章やそれが生み出す世界が美しいことは間違いない。それも太宰のようにいつ崩れてしまうかわからない、不確かなおぼろげなものではなく、確信に満ちた美であり、確かにその「美という意思」がその存在を全うするためには「完全なる崩壊劇」が必要だという主張は非常に納得できるものがある。その崩壊劇を全うしきることができるほど、人間は強くないのではないかという予感はあるが。意思と意思との戦いという点で、三島の小説の構造は非常に西欧的であると思う。(8.24.)

三島由紀夫『金閣寺』を読み進める。今、主人公が大谷大学に入り、柏木という男に出会ったあたり。陽の象徴である友人鶴川と陰的な柏木の対比というのは図式的ではあるが面白いと思う。現実問題として、二人の方向性の異なる友人の、どちらにつくかというようなことはよくあったことだ。そしてその選択はいつも正しいとは限らない。しかしなにかひかれるもののあるほうに近づいてしまうのだが、その動機が自分の中の暗い何かだったりすると、結構厄介である。三島の書くことは観念的で自意識的なのだが、私自身の中の観念や自意識と符合することが多いらしく、変に思い入れをしてにっちもさっちも行かなくなって読み進められなくなってしまうことがある。この作品は今のところそういうことはないが。(8.25.)

朝起きてから三島由紀夫『金閣寺』を読み進める。第5章の終わりで、柏木の世話した下宿の娘とそういう行為に及ぼうとしたときのこと。「そのとき金閣が現れたのである。/威厳に満ちた、憂鬱な繊細な建築。はげた金箔をそこかしこに残した豪奢の亡骸のような建築。近いと思えば遠く、親しくもあり隔たってもいる不可解な距離に、いつも澄明に浮かんでいるあの金閣が現れたのである。」

この主人公も、「金閣」という美、「金閣」という世界に罰せられている。ここで三島の文学的思考が優れていると思ったのは、「わたしはむしろ目の前の娘を、欲望の対象として考えることから遁れようとしていた。これを人生と考えるべきなのだ。前進し獲得するための一つの関門と考えるべきなのだ。今の機を逸したら、永遠に人生はわたしを訪れぬだろう。」というところで、世界に対峙するものとして「人生」を提示しているところである。「世界」に罰せられている、罰を受けている主体は「人生」なのだ。そう考えると何もかも納得がいくし、私自身の罰せられ方も理解できるように思った。

愛とか結婚とか欲望とかの場面で語られているように、人生というのは肉体的なものの象徴だろう。人は世界のことなど考えなくても生きていける。ただ世界と人生が無関係ではないだけのことだ。しかしある種の人間にとって、世界を自分の存在から切り離すことが出来なくなってしまうことが起こるわけで、それが罰に他ならない。こういう場面になぜわたしが引かれるのかよくわからなかったが、結局は同じような罰を自分も受けているからなのだろうと思うに至った。

結局自分の人生を語ろうとしても人生を通して世界を語ってしまうことなどある種の病気に他ならないのだと思う。考えてみれば常にそういう書き方しかしていないわけで、結局何かの運命というか宿命としか考えられない。(8.26.)

三島の『金閣寺』をさらに読む。第7章に入った。『金閣寺』は名作だといわれているが、それだけのことはある。題材と作者の資質、そしてそのときの作者の年齢とがこれだけ幸福な化合をした作品もないかもしれないと思う。一期一会というか。

作中で金閣寺の老師が敗戦の日に寺中の者に講話をする。その内容は有名な「南泉斬猫」の公案についてである。

余談だが、坂東眞砂子というタヒチ在住の直木賞作家が子猫殺しについてのエッセイを書いたという話を読んだとき、わたしはこの「南泉斬猫」の公案を思い出してなにか深遠な動機でそんなことをしたのかと思ったのだが、なんだかよくわからない話だった。引用元はほかに全文引用のところが見つからなかったので「きっこのブログ」だが、まあきっこ氏の言うことは表現はきついが一般的な感想だろう。避妊手術をあえて避け、生まれた子猫を殺すという選択もよくわからないし、それについてさらに非難されることを覚悟でエッセイに書くというのはもっとよくわからない。生物にとって「産む」ということが大事だからそれはさせるが「育てる」ことはしない、させないというその取捨選択の根拠はおそらく坂東氏の文学的な何かがそれをさせているのだろうと思うが、それを同人誌ではなく日経に載せる必要があるのかどうかちょっとよくわからない。

「南泉斬猫」はもっとある意味人間本位の話なのだが、子猫をめぐって寺中が争っているのを見た老師・南泉が子猫を斬って捨てる。そのあとで高弟の趙州が帰ってきてその事を話すと、趙州は頭に履(くつ)を載せて出て行った。それをみた南泉が「今日お前がいたら、あの子猫も助かったのに」と言った、と言う話である。

この話、すなわち公案をどう解釈するかと言うのは古来難問とされているのだが、この終戦の日の老師がある解釈を下し、のちに出会った柏木と言う悪友がまたこの公案について耽美的な解釈を下す。また柏木の解釈はこれも有名な「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、…父母に逢うては父母を殺し、…始めて解脱を得ん」という公案との関連からでてくる。こういう禅の公案、あるいは公案集については一時よく読んだので私も『無門関』や『臨済録』を読み直してみたのだが、こういうものをテーマにして小説が書けるということに新鮮な驚きを感じた。というか、禅の公案というもの自体がある意味非常に文学的に考えることが出来るということは発見だった。解釈が気になる方は『金閣寺』を参照されたい。(8.27.)

  

[三島由紀夫 資料および関連ページ]

三島由紀夫の作品

三島由紀夫(Wikipedia)

山中湖村 三島由紀夫文学館

三島由紀夫研究会

新潮社 三島由紀夫賞

比治山大学 三島由紀夫文庫

 

Yukio Mishima The Last Speech(You Tube 2:51)

Mishima and Death(You Tube 9:32)

 

[金閣寺関連]

金閣寺

金閣寺放火事件(Wikipedia)

世界文化遺産 金閣寺(京都府ホームページ)

 

[文中で取り上げた関連する本・ことば]

福田和也の「文章教室」

講談社

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ハルマゲドン(Wkikipedia)

エヴァンジェリズム(福音派)Wikiperia  定義2以下を参照。

 

南泉斬猫 『無門関』第十四則の公案。

無門関

岩波書店

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坂東眞砂子(Wikipedia)

坂東眞砂子の作品

 

祖師に逢うては祖師を殺し… 『臨済録』「示衆」

Wiliquote

臨済録

岩波書店

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