村上春樹の作品の評価はなぜ絶賛と酷評に分かれるのか

Posted at 08/05/05 Comment(4)»

文芸時評―現状と本当は恐いその歴史
吉岡 栄一
彩流社

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吉岡栄一『文芸時評 現状と本当は恐いその歴史』(彩流社、2007)を読む。

この本はいわば批評の批評、メタ批評の本といっていいかもしれない。その題材として村上春樹『海辺のカフカ』をめぐる問題を取り上げている。

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社

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『海辺のカフカ』は2002年に発売された長編だが、例によって賛否両論の作品だ。文芸時評も大きく絶賛派、否定派、中間派と分かれている。これは衆目の一致する評価が下されていない、というこの作品自体の問題でもあるし、一つの作品をめぐってこれだけ評価が分かれる文芸批評という営みの問題、そのバックにある日本の文壇や出版業界、ないしは読書界の問題でもある。つまり作者はこの文芸時評というテーマ、ないしは日本の文学、なかんずく純文学の現状と課題をとらえるために『海辺のカフカ』の評価をめぐる対立を取り上げたわけであり、このあたりは非常にスリリングで興味深い問題設定だと思う。

『海辺のカフカ』は私も読んでいる。しかし、どんなストーリーだったのかほとんど忘れていた。東京で父を殺した(かもしれない)少年が家出して高松に行き、不思議な経験をして帰ってくる、というある種のロードムービーのような物として記憶に残っていた。当然そこに主人公の成長という教養小説・ビルドゥングスロマン的な要素もあったように記憶していたが、基本的にはそのくらいの物で、『ねじまき鳥クロニクル』や『スプートニクの恋人』をそれなりに覚えているのに比べて印象が薄い。

このブログでも初読のときの感想・書評があげてある。2006年9月2日から4日にかけてだが、その内容は別にこちらにまとめてある。

このときの読みを見直して見ると、まあ上に書いたような単純な話ではもちろんないし、結構誉めてはいる。そして、こういうところが広く受け入れられている理由なんだろうな、と思うところも指摘しているし、自分の読み方がある種生理的なものなんだなということも思った。

1年8ヶ月ほどそれからたっているが、今、多くの人の『海辺のカフカ』評を取り上げた『文芸時評』の序章、「村上春樹『海辺のカフカ』は、なぜ絶賛と酷評に分かれるのか」を読んでみて自分の中にある『海辺のカフカ』を思い出し、またオイディプス・コンプレックス的構造の指摘があって父を殺したと言うのはあったが母と寝たというのはあったっけ、と思って読み直してみたりして(確かにあった。というかかなり重要。でもこの辺のところがすこんと抜けているところが私の頭の構造なんだろうなという気もする。自分自身の初読の感想にももちろんそれは指摘してあった。)とらえなおした私の『海辺のカフカ』、あるいは村上春樹評は以下のような物だ。

***

村上のストーリーというのは、本当はかなりどろどろした、汚らしいストーリーなんだと思う。しかしそれを透明できれいなように書く。しかしそこにポエジーがあるかというと、私はないと思う。汚い物の美、みたいな転換もない。村上の小説にあるのは汚い物をきれいに描く、という意志だ。それを押し通すところに彼の物語世界の虚構性とそれを突き抜ける力があり、そこに村上のカリスマがあり、読者にとっての救いがあるのだと思う。汚いものを汚いままきれいに見せる、そこにこの汚い世界に生きる読者にとってのリアリティが生じるのではないか。それがマジックなのか、インチキなのか、捏造なのか、本物の創造なのか、は難しい問題だ。

私は本物の創造ではないと思う。村上はそれほどは偉くない。イシグロはえらいが村上は偉くない、という話をむかし知り合いとしたことがあったが、それはそういうことなのかもしれない。イシグロの『わたしを離さないで』などにはグロテスクな状況の中での人間の美しさのようなものが確実にある。美しく書きすぎているという問題点がないことはないが、そこは少々勢いがあまっているのかもしれない。

かといって村上の書いていることがインチキだと言うのもいいすぎだとは思う。人間はある程度薄汚いものだし、その薄汚さに化粧によって糊塗すること自体を責めることはできないと思う。それよりもわたしは、なぜこの薄汚さを村上が描かなければならないのかということの方がわからない。そこを美化するというベクトルはむしろ生理的なもので、生理的であればこそ強い意志となって現れるということはわかる。

わたしはポエジーには関心があるけれどもリアリティにはどうも関心がもてないので、そのあたりのところはそんな物かと思って読んでいただけで、多分物語の面白さ、会話の妙でまあ読んでよかったとおもうくらいの成果は得られたのではないかと思う。ただしその両方にポエジーはない。村上は徹底してポエジーのない作家だと思う、むしろ。

***

村上においては愛は愛だし、汚いものは汚いものだ。そこに何か質的な変換を起こすことはない。しかしその汚いものをきれいに描く。その書きぶりに多分村上の魔術というか技術があり、無意識か意識的かはわからないが――多分かなりの度合いは意識的だと思うが――戦略があるのだと思う。そして意識の有無に関わらず、それをきれいに描くという意志がかなり強固に見えるために、そこにはポエジーが発生しない。ポエジーは洒落になる部分に発生するのであって、村上の意志は洒落にならないほど強固なのだ。

しかし「きれいに描く」、というのは「美化する」ということでもないし、欠点を「糊塗する」ということでもない。むしろ汚いとかきれいだという位相をずらすことにあるように思われる。その「ずらし」の意志。「ずらし」、は基本的にポエジーを発生させるための一つの方法なのだが、村上はそれをポエジーの発生のためではなく、むしろいいたいことを言うために、つまりいわば倫理的な問題のためにそれを使っているので、ポエジーは鼻白んでしまうのだ。しかし村上がその「ずらし」を行うことで物語に没入している読者は「ずらされ」る。その「ずらされ感」が読者を酩酊させる。

つまり、村上を評価するか否かはこのジェットコースターのような酩酊感を快楽として評価するのか、不快な物として切り捨てるかという部分があるだろう。この酩酊感には上に述べたように倫理的な問題(ぶっちゃけていえばセックスをめぐる、インセスト・タブーだの不倫だの何だのという問題)が含まれているために、これを快楽ととるか不快と取るかは断絶含みになるのだと思う。

村上が世界文学になり得ているとしたら、つまりはこのセックスをめぐる倫理的な答えの出ない(出ようがない)問題が世界性を持ち得ているからだろう。日本の文学作品はこの問題について実は結構語っていない。谷崎潤一郎は別だが。最近の作品も、アイテムとしてセックスを取り上げることはあっても、根源的な性をめぐる諸問題に倫理的な判断を下したりする作品はないと思う。村上ももちろん、そんなことを単純に正面切ってやるはずもなく、さまざまに入り組んだ仕掛けを施した上でストーリーを構築して行っているわけで、しかしそこに「汚いもの」が原形を残しているのを見るか、あるいはずらされてきれいになった物を――これが幻想なのか、汚いと思うこと自体が幻想なのか、という問題に結局はなる――見るのかということが評価を分けているのだろう。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社

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『スプートニクの恋人』が、なんとなく失敗作だと目されているのは、小学校教師の主人公が問題のある生徒の母親と不倫をしているという構造が最後まで引っ張られているところにあるのではないかと私は思う。汚いものが結構汚いまま、異物感が処理しきられないままになっている。『カフカ』は主人公を少年にすることで、神話性の持込とあいまってそこがかなり浄化されている。

夢の贈物

東京三世社

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ひさうちみちおが『夢の贈物』という作品の中で「セックスを盛り上げるために通常はムチを導入したり非日常性を持ち込むことによって性の価値を高めようとするけれども、ロリるという行為は制服など日常性を持ち込むことによって逆方向にずらすことによって成立している。ロリるというのは大人の行為なのである。」という分析をしている。村上が取っている手法もまた、「少年」をはじめとするさまざまな装置を持ち込むことで汚いものをきれいなものにずらすという芸当をやっているわけで、その手練手管はやはり評価されていい。また、世界の多くの人が求めているセックス感を村上はうまく書いていることは確かだろう。世界はいまだ、遥かに宗教的な性倫理に束縛されているし、あるいは解放されて来ていても束縛感のみは強く残っているからだ。

こう考えてくると、小谷野敦がよく言っている、村上の主人公はなぜあんなにもてるのか、すぐ女と懇ろになるのか、という問題の答えが見えてくるように思う。(小谷野はそれをもてない男子の僻み的な装いで提起しているのだが。)

セックスに関する汚いもの――それは罪といってもいいかもしれない――が発生するのは、やはり女性と関係ができるからだ。で、女性と関係ができるまでに努力が必要だったりすると、その「きたなさ」が軽減されてしまう。苦労して得た快楽よりも、苦労なしで得た快楽の方がより汚いものだと感じさせるのは当然だろう。もてる、ということは、あるいは自然に女性と関係ができる、ということは、ことばをかえて言えば「必然的に汚いものを抱え込まずにはいられない」、ということなのだ。

私などもやはり、そういう意味では自分の中に「汚いもの」を抱えているという意識がある。しかしそれに対しては、私などもやはり、「仕方ないじゃん」と正直思っているしそうしか思えない。しかしやはりそれはキリスト教的にいえば「原罪」のようなものだし、仏教的にいえば「業」だろう。これを宗教的でなく解決するためのひとつの方法論が寓話的に示されているのが村上作品なのだと。

つまりみな後ろめたいのだ、それに関しては。「カリスマが発生するところには必ず後ろめたさがある」といったのは誰だか忘れたが、村上もまた「後ろめたさのカリスマ」の一人なのだ。

NANA 18 (18) (りぼんマスコットコミックス クッキー)
矢沢 あい
集英社

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(余談だが、この辺のところは矢沢あい『NANA』にも共通する部分がある。このマンガの底辺に流れているものが何なのか言葉にならなかったが、18巻の「TAKUMI」という番外編の中で「吐き気がする/おれの欲望に塗れたドロドロの体液が/レイラの中に入って行くなんて/オカルトだよ」というモノローグがでてくることでこのマンガの深いところにあるテーマの一つが現れたように思った。)

カフカ少年が結局東京に戻っていく、その場面をもう一度読んでいると、カフカ少年に起こったさまざまなことが「成長」として語られているけれども、以上のようなことを考えてくると素直にそういっていいものではないとも思われてくる。ここを素直に思わせてしまうところが村上のしたたかさなのだが。

カフカ少年は最後に結局、一体何者になったのか、ということだ。オイディプス王の悲劇は結局は起こっていない。母は死んだが、少年は荒野に彷徨ったりはしない。そこは少年の未熟性によって許されているのだと思う。とするならば、少年は結局何も変わってはいないのだ。であるならば、これは教養小説=ビルドゥングスロマンであるよりも、そのネガであるピカレスクロマン=悪漢小説と考えるべきなのではないかと思う。今読み直していて、私にはしきりにスタンリー=キューブリック監督の『バリー・リンドン』が思い出されてならなかった。ロードムービーのピカレスクロマン。それを真っ当な教養小説に「ずらし」たところにもまた、村上評価の分かれるポイントがあるのだろうなあと思ったのだった。

バリー リンドン

ワーナー・ホーム・ビデオ

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以上、『文芸時評』序章を読んで触発されたことをとりあえずまとめておいた。

オイディプス王・アンティゴネ (新潮文庫)
福田 恒存,ソポクレス
新潮社

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"村上春樹の作品の評価はなぜ絶賛と酷評に分かれるのか"へのコメント

CommentData » Posted by shakti at 08/05/06

> 村上の小説にあるのは汚い物をきれいに描く、という意志だ。それを押し通すところに彼の物語世界の虚構性とそれを突き抜ける力があり、そこに村上のカリスマがあり、読者にとっての救いがあるのだと思う。汚いものを汚いままきれいに見せる、そこにこの汚い世界に生きる読者にとってのリアリティが生じるのではないか。

> 村上を評価するか否かはこのジェットコースターのような酩酊感を快楽として評価するのか、不快な物として切り捨てるかという部分があるだろう。

さすがkousさん、要領よくポイントを突きた議論を、的確な表現でしていますね。

> れは教養小説=ビルドゥングスロマンであるよりも、そのネガであるピカレスクロマン=悪漢小説と考えるべきなのではないかと思う。

異論がない所ではないでしょうか。カフカ少年が変わるといっても、どういうふうに変わるのか。成長ではなく、たんに変わるというふうにしか読めないですよね。


> 村上が世界文学になり得ているとしたら、つまりはこのセックスをめぐる倫理的な答えの出ない(出ようがない)問題が世界性を持ち得ているからだろう。

このことについては、気がつきませんでした。なるほど、そういう解釈もあるのでしょうね。説得力はあります。

> 汚いものをきれいに描く。その書きぶりに多分村上の魔術というか技術があり、無意識か意識的かはわからないが――多分かなりの度合いは意識的だと思うが ――戦略があるのだと思う。そして意識の有無に関わらず、それをきれいに描くという意志がかなり強固に見えるために、そこにはポエジーが発生しない。ポエジーは洒落になる部分に発生するのであって、村上の意志は洒落にならないほど強固なのだ

僕はポエジーという言葉の意味が分かりませんでした。もう少し詳しく説明してもらえればとも思います。


さて、最初の所に戻ります。「ジェットコースターのような酩酊感」というのは、たしかに村上の文章技術です。私は、素朴に素晴らしいと思います。読んでいて全然疲れないし、楽しいのです。しかし、それが娯楽以上の何かなのかと問われれば困る。このあたり、中上の評価と同じですね。

たとえば、『羊』は、しばしば比較されるコンラッドの「闇の奥」なんかよりも、数段読みやすい。だが、何度も読み返そうとか、読み返さなくチャな、という気にはならない。村上春樹の提出した「謎」を解読しようと頑張って読み返す人がいるのかな。僕なんかは、それが人生において意味あることではなく、単なる楽しみみたいに感じてしまう。中間小説だという評価も判る。

CommentData » Posted by kous37 at 08/05/06

>shaktiさん
コメントありがとうございます。吉岡の『文芸時評』を読んで、久しぶりに村上春樹を読み返しました。批評を読むということの意味は、こういうところにあるのだなと思いました。自分の「読み」が、的を射ているのかどうか。それとともに、どのくらい一般性があるのか。自分だけで面白がるのもいいのですが、その理解が社会性というか一般性を持ちえているのかどうかを把握していないと、その作品についての話が通用しなくなってしまいますから。

吉岡の試みが面白いのは『海辺のカフカ』の時評を幅広く取り上げ、概括的に論ずることによって「ひろば」的なものを想像しているからですね。ともすれば蛸壺的になる日本の言論を、ほとんどバイアスなく取り上げるこういう人の存在は貴重だと思います。その全体構造が理解できると、自分の理解がどの辺りにあるのかよくわかり、しなければならないことがどこにあるかも見えてくるので、非常に参考になるなあと思いました。

村上の酩酊感は、「楽しんで終わり」になる、というお考えはよくわかります。ただ、私にとっては単純に楽しめるわけではないので、というのは村上と私との間には世界把握の方法に明らかに断層があるからですが、そうなるとなおさら「何のために読むのか」不明になるところがあります。やはり意見の違う人の意見を聞こう、という「構え」のようなものはないではないですね。

私の場合、村上の提出した謎、というものを特に解こうとは思わないです。謎は謎であること自体に価値がある、という感覚も私は持っています。必要なときにはおのずと解明されるというか。その長い間孵化のときを待っていた謎のひとつが「性をめぐる問題」の解釈として今回私の意識の中に浮上してきた、という感じです。気長にほっとけと言う感じです。村上の謎は、いやすべての謎がそうでしょうが、多分、消化するまでに時間がかかります。その違和感が違和感として心の中に持ち続けざるを得ないので、それは謎の提出の仕方としては成功しているのではないかと思います。村上はプロットを立てずに書き始めるタイプの作家だそうですから、多分謎の本体は、村上自身も分かってないものもあるのではないでしょうか。

それに比べると、イシグロはかなり意識的ですよね。だから意識的に解明しようとしたら、イシグロの作品の方が割合すんなりと回答が出てくる気がします。そしてその回答は深くて重くて倫理性がある。普通の意味で、イシグロは優れた作家だと思います。村上の方がずっとわけが分かりません。

ポエジーと言うのは、西脇順三郎『詩学』を読んでいてああ、自分の欲しかったものはこれだ、と思った概念なんですが、一口で説明することは難しいです。今西脇の言葉を借りていえば、「ポエジーは想像することであり、イロニイであり、諧謔性であり、絶対的否定性であり、寂滅性であり、憂愁性であり、自然であり現実であり、自然と反自然の緊張性であり、矛盾であり…」というようなことになります。

村上の文章の批評として私が使った語感では、「自然と反自然の緊張性」、というのが近いかもしれません。つまり、「きれいに書く」という意志が強固であるために、きたないものときれいに書く書き方の間に当然生じるべき相克、緊張関係が乗り越えられてしまっていて、そこに詩が発生しない、ということをいいたいのだとお考えいただければいいかと思います。そういう意味で村上は意志性が非常に強いと言うことですね。だからポエジーのない作家だなと思うわけです。ということですからもちろん、これは村上を否定しての言い方ではありません。普通は思わず知らずポエジーが発生するものだと思います。それを押さえ込む村上の方が特殊なのだと思います。

なんていうか、ポエジーと言うのは「である」という形では定義できなく、「でない」という形でしかいえないものだと思っています。「やまとごころ」とは「からごころならざる」と本居宣長が言っているような意味で。それを西脇は「絶対的否定性」と表現してるのだと思います。佐藤優は亀山郁夫との対談『ロシア 闇と魂の国家』でその定義法を「否定神学の方法」と呼んでいますが。

CommentData » Posted by shakti at 08/05/06

>その違和感が違和感として心の中に持ち続けざるを得ないので、それは謎の提出の仕方としては成功しているのではないかと思います。

村上は何故の提出のしかたにおいて、文学史に記録されて良いものがあるように思います。読書会をやって皆で議論するニノニはあまりむいていない感じですが(笑)、とにかく解けない謎があって、それが気になる。気になるが、別に解けなくても構わない、そういう不思議な謎をだすのに成功した作家でしょう。そしてその謎(よく喪失感とかいいますが)は、世界中の多くの読者の人生の謎と通底し有っているような感じのものとなるような気がする。(回りくどい表現ですが、要するに、「感じがする」ということ)

>吉岡の試みが面白いのは『海辺のカフカ』の時評を幅広く取り上げ、概括的に論ずることによって「ひろば」的なものを想像しているからですね。ともすれば蛸壺的になる日本の言論を、ほとんどバイアスなく取り上げるこういう人の存在は貴重だと思います。

今回、偶然、小谷野の書評で知りました。真ん中は飛ばしちゃったけれど、すごく面白かったですね。そして何故かコンラッド論で私はプリントアウトして読んでいる人でした。

もっと広く知られて良いとおもう著作です。(つづく)

CommentData » Posted by kous37 at 08/05/06

謎と喪失感の関係、がちょっとわかりにくいかなあと思います。

村上の登場人物は、本当に何も持っていない人はいなく、すべてを持ってるがゆえにすべてを失っている、というような喪失感ですよね。どうもそういうのはちゃんちゃらおかしいという感じがしてあまり真剣に考えたことはなかったのですが、これは「モテ」をめぐる小谷野の議論とも重なることかもしれません。持っている人間の喪失感などというものは、持っている者であることの後ろめたさとでも言うべき物かもしれません。なんていうかおこがましい。そのおこがましさをしれっと書けるところが村上の筆力、ずらしの力。あれ、性をめぐる問題と同じ結論になった。

とにかく、空中に仮構された浮遊する自我のような物を浮かせたまま書くというほかの誰もやりえなかったことをやっているのかもしれません。他にそれに成功しているのは、ケータイ小説くらいのものかも。うーん、村上は元祖ケータイ小説みたいな気がしてきた。ホントか?

村上の小説の謎の「どうでもよさ」というのはケータイ小説の「どうでもよさ」に似てませんか?

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