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村上春樹『海辺のカフカ』

海辺のカフカ (上)

新潮社

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村上春樹『海辺のカフカ』上(新潮文庫、2005)を読み始めた。

まだ87ページ。カフカ少年が家出して高松の図書館を訪問しているところ。それに並行して、戦時中の不思議な事件が語られる。まだまだ伏線を書いているという感じだ。カフカ少年の設定やでてくる人物の台詞などはあまりに村上チックだし、戦時中の事件を述べた米軍の報告書のスタイルの細部にこだわる感じがああ村上だなあという気がした。

まだまだ感想をいう段階ではないが、『ねじまき鳥クロニクル』のように最初から事件らしい事件が展開する話ではなくて、世界を探検に行くというスタイルの作品に今のところはなっている。15歳、中学を卒業する前の時期は、考えてみれば私も暮らしているところを飛び出したいという気持ちは持っていた。ただ、私は田舎にいたから東京に行きたいと思っていたし、それはあまりに普通の考えだと思っていた。田舎から東京へ、東京から海外へ、という明治以来の思考の明確な方向性である。カフカ少年の家出は東京からどこかへいくという設定なので、方向性がない。自分も東京にすんでいたらそういうふうに考えたのだろうか。何か不思議な感じがする。(9.2.)

昨日。8時過ぎに家を出て少し遠回りして時間通りに歯科医に行き、簡単に診察は済んですぐ駅に出る。特急が遅れていて10分ほど待ったが、『海辺のカフカ』を読んでいたらすぐに特急は来た。朝、抗生物質を飲むためにお菓子を少し食べたがおなかがすいたので駅の売店でおにぎりとお茶を買って乗り込んだ。わりあいすぐに我慢できなくて食べてしまったのだが、それでもどうも空腹を埋められなかった。

『海辺のカフカ』を読み続ける。今これを書いているのは日曜日の午後なので、土曜日の午前中に読んでいたのは上巻であることは確かだが、辺りの風景と読んでいた内容があまり結びついていないので、どのあたりを読んでいたかはあまりはっきりしない。多分カフカ少年が高知の山の中で隔絶された孤独な数日を過ごしたあたりを読んでいたことは確かだ。そして、人跡のない山中でそのような自然への畏れを抱ける感覚が少々羨ましかった。自分にとっての山中は懐かしいものであれ、恐ろしいという感覚のものではない。こういう感覚は多分少年のころまでに決定されているもので、これから自然の中でどのような目にあっても自然に対する畏れが彼と同じ形で経験されることはないだろうと思う。都会育ちと田野育ちというのは、想像以上に巨大な裂け目で隔てられていると感じている。(9.3.)

昨日。とりあえず4時ころまでかかって村上春樹『海辺のカフカ』を読了。ある意味スピリチュアルであり、神話の構造を使ったというより神話そのもの的であり、「かえる君、東京を救う」的であり、『ねじまき鳥クロニクル』に匹敵する渾身の大作、という感じだった。「オイディプス王」を根本にすえているので、おそらく欧米の読者にも読みやすい作品なのだろうと思う。帯に「ハーバード・ブックストアで1位」と書いてあるし。

とりあえず外出する。ぼおっと『海辺のカフカ』の中の登場人物のことなどを考えながら。一番共感を覚えるのは「大島さん」の存在だな。この人がどういう人かを書くとややネタばれなので遠慮するが、非常に中間的というか境界的というかどこにも属さないという感覚を自分の知性と意志によって平常に保っている姿に自分自身のある種のイデア、あるいはあるべき姿のようなものが投影される。資産家が残したのんびりした私立図書館の司書、なんていう理想的なポジションを得たいものだと思う。もうひとり引かれるのは「ナカタさん」(そして彼と一緒に出てくるホシノさん)だが、この人の描き方にはいろいろと論議があるだろうと思う。ただわたしはこういう人が好きだ。実際には存在し得ない人間だと思うけど。非インテリ階級の話がある節度を持った上品さ(あるいは抑制された下品さ)を持って語られるというのは、読んでいて気楽でいい。そういうところが非現実的だと思うのだが、まあその辺のところは「幸福は寓話であり、不幸とは物語である」ということでいいのだと、ま、仮に断言しておきたい。

***

『海辺のカフカ』を読みながらページの隅を折って印象に残ったところをマークしておいた。これは文庫本(と新書本)にしかやらないようにしているが、まあそのせいで文庫本を良く買うことになるんだよなと思う。朝起きてから思い立って印象に残るフレーズをテキストファイルに打ち出していく。上下合わせて今のところ7つの文章を打ったが、そのうち6つが「大島さん」のコメントだ。改めて読んでみると、大島さんは主人公の少年に状況の説明(あるはその解釈)をしているのだが、それは物語り構造全体の説明であることに気がつく。つまり大島さんが少年に語るような顔をして、作者が読者にこの話はこういう話だと説明しているのだが、わたしは基本的にはそういうメタフィジカルな読み方よりも村上が持って行こうとしている物語自体への惑溺に魅かれるので、読んでいるときは気にも留めなかった、というより気がつかなかった。しかし、これは自分が何かを書くときには使える手法だと思った。あるいはそれがどのくらいうまく使えるかが小説を書く人間の腕前なのかもしれない。

先ほど書いた「大島さん」や「ナカタさん」は「普通の人」ではない。彼らのキャラクターはメタファーであり、より大きな物語、あるいは神話的構造に入っていくための入り口に過ぎない。神話には語られるパターンがあり、その中での役どころというのはだいたい決まっている。この小説はある種のビルドゥングス・ロマンであるから成長を描かれる対象はやはり少年であることが自然だ。だいたい、私自身が世界に対してそういう把握のしかたをする人間なので、そういうことがきわめて自然に感じられるのだろう。

私が感じたのは、私のように感じ考える人間がわたしだけではない、という大きな安堵感であったことは書いておきたいと思う。村上の読者の多くは、私自身とは違う部分においてであろうとは思うが、そういうように感じる人は多いのではないかという気がする。わたしは以前戯曲を書いたときに「人類なんて滅んだってかまわない。僕はあなたといたいだけなんだ」という台詞を書いたことがあるが、『海辺のカフカ』作中のもっとも大事な台詞が以下のようなものであったことと重なる。

「私があなたに求めていることはたったひとつ」と佐伯さんは言う。そして顔を上げ、僕の目をまっすぐに見る。「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない。」

これほど深い愛の告白があるものだろうかと思う。ほかのすべてに人に忘れられても、ただひとりの「あなた」に覚えていてもらえれば、それでいい。そういえる思いの深さが、自分の中でどんなにこだましたことか、わからない。たましいの深いところに何があるか、知っていなければ書けない言葉なのだと思う。

父は滅び、母は死ぬ。そして子どもは生き、成長する。そのとき伝えられるのはたった一つの言葉。弔うとか偲ぶとかいうと私の言いたいことと違う意味が着きすぎるが、要するにそういう行為の本当の本質は、この言葉に凝縮されているのだと思う。

飛躍だと思われるだろうし、おそらく村上は嫌な顔をするだろうが、靖国神社というのは要するにそういう存在なのだと私は思う。ただひとりの誰かに、覚えていてほしい。そう言って散った若者たちがあったこと。靖国の巨大な鉄の第一の鳥居をぺしぺしと叩いて、「○○君、また来たよ」というおばさん。ただひとりの誰か、というと「T.S.エリオットのいう<うつろな人間たち>」はすぐに「天皇」、と思うだろうが、それは天皇陛下であってもそうでなくてもいい。ただ、昭和天皇という人は、そういう思いをご自身なりに受け止めていた人だろうとは思うし、だからこそ尊崇され、現在もなおさまざまな形で影響力を持っておられるのだろうとは思う。私自身の感じ方とその影響の仕方は少しずれてはいるのだが。

ま、そういう村上と私自身との相違点とも重なるが、「父」という存在はこの小説の中では「滅びるべき邪悪なもの」を担って描かれている。まあ大概の村上の小説ではそういうものとして「古い日本」は描かれているのでこりゃまあまたかという感じではあるのだが。ただ、資産家の私立図書館が「古きよき思い出」を担うものとして描かれているように、すべて古いものが滅びるべきというわけでもない。新しいものなら何でもいいかというと、典型的なフェミニストが「T.S.エリオットのいう<うつろな人間たち>」として糾弾されていて、まこれはあまりにステロタイプではあるのだが、これも物語の展開の肉付けに使われているので私などはまあそりゃそれでいいかとは思うくらいではある。

だいたいこの小説は全体にリアリティに欠けているところがあって、「神は細部に宿る」ということばのまったく逆であり、細部を見ていくとリアリティに欠けるところがたくさん出てくる。戦時中の女教師の告白の手紙なども、この時代の人ならこういうふうには考えないしこういう書き方をしないと思う部分が、この時代の文書に触れる機会がそれなりにある私自身にはしてしまう。

要するにこの小説は全体として寓話であり、メタファーであり、神話なのだ。その中で「父」が「滅びるべき邪悪なもの」を担い、「息子」が象徴的な形で、あるいは寓話の中の象徴的な登場人物の力を借りて「父」を倒し、「古い悪」を消滅させるというある種の「願い」は、村上の小説の中にはしょっちゅう出てくる。それが多分村上が村上たるところで、そこは私が好きじゃないといっても仕方のないところだ。

私ならおそらく、「T.S.エリオットのいう<うつろな人間たち>」のほうの糾弾が中心になると思うのだけど、ただこれだけでは安定性を欠くということは私自身うすうすは思っていた。「滅びるべき邪悪なもの」を担った「父」なる存在とのある種の対比性の中から彼らの「うつろさ」が浮かび上がってくる点もある。私が書くならば、彼らを照射する逆方向からの「負の光」のようなものをもうひとつ見つけ出さないといけないかもしれないと思う。(9.4.)

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