私は基本的に文章を誰かのために書いているということはなくて、自分が書きたいから書いているのだけど、自分が書きたいからではなく誰かに読んでもらいたいから書いているということもやはりあるわけで、それを考えてみると誰かに読んでもらうために書くということも考えながら書いた方がいいのかもしれないと思った。
自分の考えることが誰かの役に立つかというとそんなことはわからないわけだけど、自分が書きたいことを書いてそれが誰かの役に立つならそれはそれでいいことだなと思うが、最初から誰かに読んでもらうために書くというのは、今思いついて書き始めてみてなんだか少し不思議な感じがする。
ただそういえば、以前もっと頻繁に物を書いていた頃はおそらくそういう気持ちがあったのだろうと思う、自分が気がついて、というよりは意識をどの程度していたかは忘れてしまったけど。ただ、どこかの誰かのために書く、というのは多分いつかの時点で嫌になってしまったことがある気がする。そういうのがいつなのかはよくわからないけど。
多分、自分が書きたいから書く、というのはどこかに限界があるのだと思う。そして、どこかの誰かに読んでもらいたいから書く、というのが原動力になることはある。どこかの誰か、というのがどれくらい意識できるかは難しいけど、あまりそれが明確に意識されない方がより多くの人に届くのかもしれないとも思う。
Twitterでツイートをしているときはやはり読んでもらうのを意識して書いている。ウケを狙ったりもするし、自分の感情を割とストレートに表現したりするのも、これを誰かが読んで受け止めてくれるだろう、という気持ちはゼロのはずはなくて、まあこういう感情はあれだなと思ったりすると自重することもあるわけだ。
じゃあTwitterで書く文章と、今書いている文章はどこが違うかというと、やはり基本的にはウケという意味で読んでもらうことを狙っているわけではないということだな。ウケなくてもいいが、読んでもらいたいという文章はある。それはなんだろう。140字では書けない内容だということもあるだろうけど、何か根本的に違うのは、Twitterというのはタイムライン上に無作為に他の人のツイートと並列的に並んでいるもので、その中から発見されて読むものだから、一定ウケを狙わないといけない動機があるのだけど、ブログの文章はまず読み始めてもらえたら最後まで読み続けてもらいたいわけだから一発ギャグみたいな感じでウケを狙い続けることに意味はないわけだ。
だからまあ、読む人にとって有益なことを書こうと思うこともあるわけだけど、誰にとってどういう内容が有益かとかは全然わからないわけだから、それよりは読み続けてもらうための文体とか表現とかそういうことに気持ちがいくという部分もあるし、まあなんだか自然に手が動いているという部分もあるし、ただ吐き出すように文章を書き綴り続けているという面もあって、まあ割と生理的な文章なんだよなこういうのは。
ここまでこういう内容で書いてしまうといきなり好きなマンガの話とか始めるのもあれだし歴史について話し始めても唐突だしトランプ・サーガについて書くのも面白いけど面白ければいいってもんでもないしこの話なりのまとめ方をしなきゃなあと思ったりもするが、だいたいこの内容の話をまとめる必要があるのかという根本的な疑問も出てきたりはするわけだ。
結局、こういう文章というのは呼吸をするように書いているわけで、たとえばモーツァルトが息をするように作曲してたみたいな話と同じなんだけど、たとえばプーシキンの文章や詩なんかはそうやって書かれた部分が大きいような気はするんだな。
誰かのために何かをしてあげたいというのも人間にとっての本能の一つだと思うから、文章もそうやって書かれるのもある種本能的なもので、この内容が読んでいる人に届くのかどうかはわからないが、ちょっとそんなことを考えながら文章を書いてみた。