7.何気ない日常を守りたい:自分の政治・経済的スタンスとか「鬼滅の刃」とか(01/19 08:16)


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自分の政治的スタンスや経済政策的なスタンスについて書こうと思って、しかしなぜそうなのかということを遡って考えたのだが、この時にこういう思想に出会ったからだとか、こういう本を読んでだんだんこういうふうに思うようになったとか書いてみても、どうもしっくりこない感じがあって、なかなか何を書くか、ということが定まらずにいて、昨日は自動書記みたいな感じで書いてみたのだが、まあちょっと思うところがあったような感じがする。

私の政治的スタンスは「保守」ということになると思うし、経済政策的なスタンスは「反緊縮・積極財政」、ケインズ政策ないしMMTにも期待、ということになる。政治的に反対するのはポリティカルコレクトを錦の御旗とする趨勢で、経済政策的には緊縮財政・均衡財政・リストラ至上主義・ネオリベラリズム・新古典派経済学ということになる。

それぞれについてはもちろんなぜそう考えるようになったのかという起源は言おうと思えば言えないことはないのだが、結局は「こういうことを知ったから」だけではなくて、「こういうことを知り、いろいろ考えているうちに、自分としてはこう考えよう」というようになっていったからであって、そのプロセスについてはもうあまりはっきり覚えていないということが多い。

だからそれぞれの自分の考えの正当性を主張するべき局面が来たらそれはそのように説明しようとは思うけど、実際の政治的・経済的局面は時事刻々変化しているわけで、そういう必要ができた時にその時の局面に合わせて主張しなければあまり意味がないので、とりあえず上記のようなスタンスだということだけ書いておきたいと思う。

それでは、どうしてそういうスタンスなのかということを、つまり、合理的・観念的な正しさはとりあえずおいておいて、自分自身の「内なる願い」というものとどう違和感なく接合しているかということを考えたとき、自分が何を願っていて何を実現したいと思っているのかということを考えてみると、「何気ない日常を守りたい」ということなんだろうと思った。

これはよく「生活保守主義」などと言われるけれども、多分そう言われるようなことなのだと思う。何気ない日常というのはなんだろうと考えてみると、もちろんそれは人によって違うものであるわけで、全ての人の全ての日常が滞りなく進んでいく社会などというものはもちろんそうあるわけではないし、非日常を求める人の気持ちというものもあるし自分の日常に満足できずにいる人たちも多いわけで、まあそんな簡単にまとめられるものでもないのだけど、「何気ない日常の大切さというものは失われた時にわかる」とはよく言われることだが、今のようなコロナ状況の元では強く感じる人は多いだろうと思う。

人はともかく、自分自身の「何気ない日常」とはどういうものなのか、というのを考えてみた時に、一つ浮かんだイメージがある。私は知らない駅で降りて知らない街をなんとなくぶらぶらしたりとかするのが好きなのだが、その時にそこから一番近い図書館を探して、そこまで歩いて街の様子を楽しみ、またその図書館に入ってそこに置いてある図書の品揃えを見たり、閲覧室の明るさとかそこで本を読んでいる人たちの様子、子どもの本のコーナーを見たり、そこでなされている工夫を知ったりして楽しんでいる、というのが私のイメージする「何気ない日常」の例だなと思ったのだった。

人によっては仕事が終わってから同僚や友達と飲み歩いたり、仕事が早上がりした時に赤提灯で明るいうちから飲み始めたりすることが日常のイメージかもしれないし、家族で大きな川の土手を散歩したりすることが日常かもしれない。私の日常のイメージは考えてみると本との関わりがかなり大きな部分を占めているので、図書館とか自宅の書棚とか大きな書店とか商店街の小さな書店とか、どうしてもそういうイメージが大きくなるのだが、その辺りは人によって当然違うだろう。

コロナ禍によってどんな人の日常もそれなりに損壊を受けていると思うのだけど、そうした日常そのものがここ20年?30年くらいの間にかなり傷付けられて来ているということは私は感じていて、そうなってしまった経済情勢的な理由がネオリベラリズムによる財政の削減による公共サービスの縮小や、人々の自由時間を減らす労働過多の傾向、それでいながら給料は増えずまた雇用も不安定になって来ているということからくる将来への不安、と言ったものに対する不満ということが大きい。


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