靖国問題自体の話に戻ると、結局は戦後体制を物神化するか否かというところに問題の核心があるのだろうと思う。どういう信条を持とうともちろん自由なのだが、日本国憲法ができる前から日本という国はあったわけだし、日本という国の実情に合わせて日本人が制定したものでない憲法に日本という国の実情を合わせようというのはきわめて倒錯した思考であると思う。日本サッカーは南米流にすべきか、欧州流にすべきかという議論と同じである。オシムの言うように、日本流のサッカーを見出し、戦って行くべきだという答えだけが正しいと私などは思う。また多くの人がオシム監督に期待しているのは、「まだ見ぬ日本流サッカー」への期待が極めて高いからだと思う。
サッカーの日本化が叫ばれているように、憲法も日本化されなければならないと思う。それはもちろん、大日本帝国憲法と同じものというわけには行かない。国体論を憲法の支柱に据えるのもそのままでは無理だろう。そういえば主体論を支柱に据えている国はあったが。「日本化された憲法」はまだ影も形もない。
少なくとも戦後体制を仏神化する姿勢からは、そうした創造的な憲法論は出てこないだろう。また保守の側にしても、逆説的に聞こえるとは思うが、丸山真男や南原繁は読まれるべきで、そこから吸収すべきもの(もちろん批判的に、というところは多いだろうが)はたくさんあるように思う。お互いがお互いをまともな論敵と認め合っておらず、試合会場外での場外乱闘ばかりが繰り返されて無理解の断絶が深まる一方なのである。
なかなかこういう問題は書き尽くせない。結局歴史理解のスキームの根幹に関わる問題で、そこを譲ればすべてが崩壊するという性質の問題だからだろう。そしてそういう問題だからこそ、フェアな議論が必要だと思う。ただただ直接的な、あるいは陰にこもった罵倒の応酬であるならば、そんな言葉に価値などない。
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