その私の感覚に最も抵触した、最も気持ちの悪い表現に感じたのが「B層」という言葉である。これは郵政民営化の際に小泉内閣の支持基盤を分析したペーパーに由来する。これはある傾向を左右方向・上下方向にとって座標軸上にそれを表現しようという方法で、座標軸上にある傾向の集団を見出そうという方法である。リンク先を見ればわかるが、左右軸(x軸方向)は構造改革にポジティブかネガティブかをとっている。それはまあいいが、上下軸(y軸方向)にIQの高低を取っていることが問題化したのである。私はこの図をはじめてみたときそのあまりの不用意さに思わず笑ってしまったが、もちろん内部資料であれこのようにリークの多い日本社会で問題解決や啓発活動に「知能程度」をグラフにしてあらわすということがどのような反応を招くかという認識が全く欠けているというべきだろう。政策にどの程度の関心を持ち理解しているか、という程度の軸設定なら問題化しなかっただろうが、「頭が言いか悪いか」ととらえられかねない、いやとらえられるに決まっている軸設定で表現した時点でなにか根本的なデリカシーというか、そういうものが欠けているといわざるを得ない。
そういう認識はともかく、こういう座標軸的な表現は社会学者などもよく使っているし、多分アメリカ人好みの方法だと思う。私などはこのような単純な図式化は好きではないし、上記のような意図があったかどうかは知らないが差別的なニュアンスが含まれがちであるから用いるのに慎重であるべきだと思う。
このペーパーを書いた人はともかく、その後の流通の仕方から見て「B層」という言葉には「馬鹿な大衆」というニュアンスが多分に含まれていることは議論の余地がないだろう。したがってこの言葉は2ちゃんねるなどで使われるような用語であって、真っ当な人間が自分の意見を表明する場で使うべき言葉ではない。私には、「大衆は豚だ」というようなファシズム的な表現と全く同根だと思われる。それならば「下流」とか言う決め付け方の方が意図がクリアなだけにまだましである。このような持って回った言い回しは複雑な悪意をさまざまにこめやすく、実際にこめられているためにきわめて品が悪い。
私はこの言葉を郵政民営化の頃に見て失笑してそのまま忘れていたが、一部では「小泉内閣を支持する頭の悪い大衆」という意味内容を持って流通しているということを今回はじめて知り、きわめて不快に感じた。これをいわゆる靖国問題に当てはめれば、参拝反対=思想的に健全かつ頭いい、参拝反対=小泉の笛に踊らされている馬鹿、という構図が当然成り立つ。強烈なレッテル張り効果のある言葉である。このような議論の仕方には不愉快の念を感じざるを得ない。相手の思想を頭の良し悪しで測ろうとするのはきわめて妥当性を欠いていると言うべきだろう。
もう一つ非常に短絡的なものを感じたのが加藤氏宅放火事件を「戦前回帰だ」とする論調である。留守宅に放火するなど卑怯なやり方を、戦前の暗殺者たちがやるはずがない。一対一で政敵と向き合い、命を投げだしたからこそそのやり方や思想に議論はあれ彼らは「国士」「義士」として遇されたのだ、という認識を、戦中戦後の人びとの手記等を一定数読んでいれば当然理解できるはずである。たとえばもし安重根が伊藤博文の留守宅に放火するなどという卑小な犯罪者であったら、彼が「義士」として遇されるはずがないだろう。私はもちろん政治テロという手段に賛同できない。だからといって放火犯と義士を味噌も糞も一緒にするのは間違っていると思う。神風特攻隊と911のテロリストの混同とかにも見られる、ことだが、それこそ「もっと歴史を学んでほしい」といいたくなる粗雑さである。安重根など日本人にとっては明治の元勲を暗殺したテロリストに過ぎないが、だからといって彼の至情を全く無視していいとは私は思わない。そうした行動に出る人々の心情に尊いものがあると見る気持ちがなければ、何のために歴史など学ぶのだろうか、と私などは思う。それと留守宅放火犯を同一次元で語ることは許せないことであると私には思われる。
これも平行線の議論に違いないが、歴史において重視するものの違いが人にあることを認め合う寛容の必要性を痛感する。