一昨日の靖国参拝についての論考について、うさたろうさんからコメントがついた。うさたろうさんのブログのみについてコメントしたわけではないのだが、ほかからの反応がいまのところない(気がつかないだけかもしれないが)ので対話形式で少々お答えしたいと思う。前回は少し強めの表現になったが、真摯にお答えいただいて、感謝している。
まず「B層」についてだが、「加藤氏実家放火という事態を前にして、「ざまあみろ」「GJ」といったことを書き込み加藤氏の言論を否定するような連中は、新自由主義的政策を支持するのかどうかといった問題以前に、民主主義の原則を自ら掘り崩すことに何の疑問も感じないという意味で、市民としての基礎的な教養の欠落、下品さを感じざるをえない」ような「連中」は「B層とでも呼ぶしかない」という判断から「侮蔑的」にこの言葉を使った、といっておられる。
ちょっと「B層」の初期の定義からはかなりずれた使い方ではあると思う。いいたいことは分かる。「市民としての基礎的な教養を持たない下品な連中」という表現の「教養」という定義にはおそらく「民主主義倫理」が含まれているのだろうと思うが、私個人としては「教養による差別ニアリーイコール知能による差別」というニュアンスを排除するために、「教養」というより「倫理」という言い方をしていただきたい気がする。そう感じるのは私の教員経験から来るPC感覚だと思うが。
私も戦後民主主義に対して批判は持っているけれども、現代社会に生きる以上、いろいろな意味での民主主義倫理を持つことは必須であると思う。「ざまあみろ」とか「グッジョブ」とか言うのは論外だ。
ただ私は、そのような書き込みをする人間が普段完全に反社会的な人間かというと、必ずしもそうでもないのではないかと思う。それだけを見れば「対話の余地がない」と感じるのも当然だと思うが、彼らの発言、あるいは書き込みは「感情的」というよりも「論理が不自由」なのだ、と思う。彼らの中にはどこかで論理を獲得すると水を得た魚のように同じことを書きまくる人がかなりいることからもそれは了解されるだろう。もちろんその類の人間は左翼側にもかなりいる。現状では保守を称する側が目だっていることは事実だが。
そこまでひどい人間でなくても、「小泉首相の靖国参拝は支持したい」と漠然と感じている人々はたくさんいる。そういう人々の多くは漠然とそう考えていても論理的にはうまく言えない人が多いだろう。だいたい靖国問題でなくても政治的な議論で論争に加われるほど論理を駆使できる人が日本国民の何パーセントいるかといえば、寥々たるものだろうけど。しかし、この問題はかなりの部分純粋にイデオロギー的なテーマだから、語ろうとすれば相当な理論武装が必要だ。しかも現代に生きる多くの人々にはいわゆる自虐史観の呪縛がかなり強烈に働いているし、肯定する言説に触れるにはかなり意識して積極的に勉強しなければならない。したがって、論理で自分の主張を組み立てるには普通に生活している人にはかなり困難なことになる。
そうなると結局は誰かの受け売りをしたりネットの言説を借りてきたりして何とか説明するしかなくなるし、そういう人はリアルのわたしの周囲を含めてたくさん存在する。それは初期的に「B層」に定義された層に留まらないし、年齢的にもかなり幅広く存在する。
そうした人のたどたどしい主張は、確かにある種の痛々しさを感じることは多い。しかし、そのようにしてまで公人の靖国参拝を支持したいという思いを持つ人が増え、各層に広がりと深まりを持ちつつあるということは私の実感としてはある。それはやはり、「失われた日本らしさ」を何とか取り戻したいという切なる願いの現われなのだと思うのだが、悲しいかな何がその「日本らしさ」であるのか、あまりはっきりとわからなくなっているのだ。そういう意味では「靖国神社」というのはそういう「日本らしさ」の象徴としてかなりふさわしいものなのだと思う。
靖国神社は皇室や神話の神々を祭った神社ではない。一介の兵士たち、志半ばで倒れた多くの若者たち、家族を残して死んだ多くの軍人たちを祭った、いわば庶民の神社である。「別格官幣大社」というと偉そうに聞こえるが、これはほかには豊国明神と日光東照宮、つまり豊臣秀吉と徳川家康、つまり「皇族でない一般人を祭った神社」という社格なのである。そして靖国神社には全国の兵士たちが祭られている。日本中の庶民が神として祭られている社などほかに存在しないのだから。
そういう意味で靖国神社は、日本人の「心のふるさと」的な意味合いがもたれる部分が必ずあると思う。私は、靖国神社が時代とともに風化し、消え行くべき存在だとは思わない。