郵政民営化に反対した小林代議士に対抗して小池百合子環境大臣を立てるという思いきった技を仕掛ける小泉首相。安部晋三を幹事長に起用したとき、石原慎太郎は「純ちゃんは人事の天才だ」と感嘆していたが、久しぶりにその技を見た、という感じである。人事というにはあまりに戦闘的な手段だが、反対派のぐうの音も出ないほど押さえ込もうという首相の戦闘意欲、闘志は国民に強くアピールするだろう。
それに対して反対派のぼやき節はさえない。結局新党話も昼の幽霊のごとく立ち消えたし、無所属でなんとか勝ち残って後はクーデターを起こして小泉首相を追放するくらいしか生き筋がない。それも、自民公明で過半数を取れば首相の政権担当の正統性が確立してしまうから、自公で過半数割れを起こすことを念じるしかないだろう。そうして小泉首相が退陣した後の後継者に擦り寄って復帰を懇願するということになろうか。しかし、選挙で対立して戦った後にそれができるかどうかわからないし、だいたい反対派が復帰して自公で過半数に達するかどうかも不明である。自分ではハンドル出来ない状況の中で闇雲に首相を批判するだけで、彼らは生き残っていくことが出来るのだろうか。
政治とは闘争だ、ということを一番わきまえているのがやはり小泉首相なのだろう。浜口内閣の逓信大臣だった祖父・小泉又二郎はもともと港湾労働者を束ねる存在であり、こうした喧嘩についてはやはり小泉家の血が騒ぐという感じを与える。何事においても、時間を味方にするという「勝負」の重要性を小泉首相は良く理解している。特権階級の太ったなんとやらの集団になりつつあった自民党の中で、彼は異質ではあったが、その分非常事態になったら無類の強さを発揮する。郵政民営化の是非はともかく、喧嘩の作法に関しては学ぶべきところが多いといえるだろう。『東大で上野千鶴子に喧嘩を学ぶ』(だったかな?)とかいう本があったが、上野千鶴子の喧嘩よりはこっちの方が勉強になるような気がする。
アンドレ・モーロワ『フランス敗れたり』(ウェッジ)読了。第2次世界大戦において、ヒトラーの電撃戦の前にもろくも敗れ去ったフランスの惨状を描くとともに、なぜフランスが敗れ去ったかについて考察している。第1次世界大戦の前には激しく対立していたポアンカレとクレマンソーという二人のリーダーが、戦争を戦い抜くことに関しては一致したこと、また労働者も中産階級も一致協力して戦ったのに対し、第2次世界大戦のときは労働者階級と社会主義政党の忠誠心はソ連に奪われ、中産階級の共感はナチスに奪われていて、フランスを守るという統一された意思が失われていたことなどをあげている。この本、思うところはたくさんあるし、読み応えのある作品になっていた。普仏戦争から70年、敗戦から生まれた民主主義政体である第3共和制が、大東亜戦争から60年を経て同じように敗戦から生まれた戦後民主主義政体とかなりおなじもんだいてんを共有しているという指摘はあたっている部分があるように思う。
何気ない描写が小説のようで、映画のようで作者の筆力を感じさせる。フランドルの街道筋で奔流のように続く避難民の群れを見ながら農婦が作者に語りかけた言葉、「なんと憐れなことでしょう、大尉さん!このように大きな国が…」ということばもじんと来るし、1940年の7月14日、すなわちフランスのナショナルデーである革命記念日にカナダに逃れてきた著者は、祖国フランスではナチスによって禁止されたトリコロールが町のあちこちに飾られているのを見て、「仏系カナダ人は忠誠であった。」という。「フランスよ。汝も祖国に忠誠であれ」という。この最後の言葉も、少し涙ぐむものがある。
これは前に書いたことがあるかもしれないが、いつもの八月なら戦争の悲惨ばかりを訴える書籍が多数店頭に並ぶこの季節に、敗戦から得られる教訓、あるいは大東亜戦争の意義をもう一度検討しなおすような書籍がかなり店頭に並ぶようになったことは、ようやくある種のマインドコントロールが解けつつあるのだなと言うようには思う。まだまだこれからだが、平和というものを日本の社会の中で蛸壺的に考えるだけでなく、世界の過去と現在を良く見据えた上で未来を考えることが出来るようになりつつあることはよいことだと思う。