4904.言論テロと知の階級闘争/四谷大塚を東進ハイスクールが買収(08/19 12:20)


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昨日深夜帰京。帰ってきてネットでいろいろやっていたら3時過ぎになってしまい、なぜか猛烈な腹痛を覚え、5時くらいまで苦しむ。もう明るくなっていた。目が覚めたら1020分で、だいぶ寝られたので休まったが、腹の中は空っぽだ。とにかく水分を取らなければとお茶を飲んでいるが、ご飯を食べるのはちょっと勇気がいる。夜中にかなり集中してものを書いたせいかもしれない。困ったことだ。

深夜に書いたことについてつらつら苦しみながら考えたりしたことが二つほど。私など1960年代生まれにとって、テロというのは「過激派」のやることである、という印象が強いのだが、もっと下の世代になるとそれは「外国」のことであったり「戦前」のことであったりするんだろうなあということ。そういう感じ方の違いというのは世代ごとに大きいのかもしれない。もちろん実際には野村秋介らに代表される新右翼の「肉体言語」としてのテロ活動はあったのだが、まあそれも相当下火になっている。実際、学生時代にはそういういわゆる「過激派」の人たちと会話したことはあっても「右翼」の人たちとの会話はあまり記憶にない。今回の件で「戦前」に話が飛ぶのはちょっと飛びすぎだと私には感じられ、一般には必ずしもそうでもないらしいということには、そういう背景があるからかもしれない。

テレビをちょっと見ていたら猪瀬直樹が今回の事件の量刑をきちんとしなければいけない、ということを言っていたが、それはその通りだと思う。どのような形であれ動機であれ、テロリズムが市民社会、法治国家に対する重大な挑戦であることに違いはない。動機に共感することが例えあったとしても、量刑で斟酌があってはならないだろう。確かにこの点においては、戦前の一連のテロリズムにおいて、それが表面化した最初の5・15事件の量刑が極めて軽いものであったことは後々に尾を引いている部分はあろう。逆に関東大震災における大杉事件で、甘粕に対しての量刑が陸軍側にかなりの不満を残していたことなどあり、こうした事件の量刑というのは難しい面があり、誰もが納得のいく判決というのは難しいが、特例的な判断があってはならないだろう。政府も、政治テロは決して容認しないという姿勢は示してしかるべきである。事件の全容がある程度明らかになったら、そうした声明を出すべきだろう。

佐藤卓己『言論統制』(中公新書、2004)などを読んだときも感じたのだが、こうしたテロや腕力、暴力による言論封殺という事象については、「『知』の階級闘争」という側面がどうしても現前するということがある。つまり攻撃される側が「鼻持ちならないインテリ=知の資源の大所有者」であり、攻撃する側が「知の資源の少ない『庶民』」であるという形である。こういう形が成り立ってしまうと、階級闘争的に「弱者」である暴力者のほうが幅広く支持を集める可能性があるのである。しかしたとえばナチスなどは反知性主義とよく言われるが、現実には知識人もナチスを信奉した例が多いように、もっと巧妙であったと思うのだが、日本の軍人たちはどうも階級闘争的な怨念をそのままもろに知識人にぶつけたように思う。そしてある意味、その構図は現在でも変わっていない部分があるのではないか。

<画像>言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家

中央公論新社

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