「国」というものの動的な創造過程と「ロマン」の緩やかな縛りという話しはもちろんわからなくはない。たとえばインドネシア国家の成立などについては、そういうことは確かにいえるだろうと思う。アメリカ国家についてももちろんだけど。日本国家についても、本州・四国・九州以外の地域を統合していく上で、また国内的な近代化の過程でそういうものが必要になったということはもちろんある。ま、万世一系とか天壌無窮とかのロマン(といっていいかどうかはわからないが)に絶対的な価値を置こうというのが国体論であり、日本的なロマンを遮断してメイフラワー契約的なバタ臭いロマンを基礎にしようとしたのが日本国憲法ということになるのだろうけど、まあどっちに魅力を感じるかといえば少なくとも後者にはあまり魅力はないのではないか。私自身、国体論に絶対的に寄りかかれるかというとそんなことはない、ということは何度も書いているけれど。
しかしなんというか、「ちなみにオレ自身は首相の靖国参拝云々やA級戦犯云々ということより、靖国の存在自体にそもそも激しく否定的でありまして、日本人の魂のふるさとだなんて、ちょっと冗談はよしてよ、としか言いようがない」というのを読むと、自らを「アメリカ型リベラル」と公言する人に「日本人の魂」についてとやかく言われるのはなんだかなあ、と思ってしまうのは私だけでしょうか。
ポストコロニアルというけれども、日本もやはり実質的なアメリカ植民地のポストコロニアル状況にある、というか、今も現実的には植民地なのかなと思ってしまいます。ポストコロニアル作家としてもっとも典型的なサルマン・ラシュディはインドのヒンドゥー文学を否定して(あくまで受け売り)英語文学の世界性を主張しているけれども、なんだかちょっと無作法な感じがしてしまうのと同じような感じがするのですが。
いずれにしても、かけ離れた分野、かけ離れた文化背景の方と議論するのは難しい。同じ対象と言語的には同定されるものを見ても多分全然違うように見えてるんだろうなあと思いますし、まずはその差異を埋めていくのが重労働です。
ただきっと、私の文章を読まれている方の中には相当かけ離れたバックグラウンドをお持ちの方もあるでしょうし、たまにはそういう言う努力も必要かと思い、書いてみました。まあなるべく意図するところをお汲み取りいただきながら読んでいただけるとありがたいのですが。
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