靖国「問題」について【な】さんからコメントを戴く。【な】さんは以前これもまた靖国「問題」について書いたときに「産経文化人」というレッテルを貼っていただいたことがあった。さすがにそれは毛沢東にトロツキストというようなものだろうと(たとえは忘れたがまあ竹中平蔵をケインジアンと呼ぶでもいい。何だって一緒ですが)思ったが、なんというか、私などの普段議論しているところのナナメの異空間というか、私などにすると「ねじれの位置」くらいから話しかけてこられるのでなかなかお返事が難しいなといつも思う。しかしそれもまた勉強であろうから、ちょっと対応させていただきたいと思う。
【な】さんの立ち位置が私などにはよくわからないのだけど、ご自分では「アメリカ型リベラル」とおっしゃっておられる。うーん、だからといって中絶賛成とかアファーマティブアクション賛成とかを言いたいのではないと思うのだが、アメリカ人のリベラルといっても千差万別だからイメージがつかめない。
「左翼」というもののとらえ方もかなり違いがあるようで、私自身も90年代の半ばにはキャンパスに出入りしていたので私なりのとらえ方があるけれども、「左翼」は一部の教授連くらいで、(私は文学部だからほかより率は高いかもしれない)島田雅彦の言うところの「サヨク」くらいの人もまあまあいただろう。「リベラル」というのはずいぶん無定形な言い方で、まあそのくらいのレッテルなら安心、というくらいの感じだけど、実質は「ノンポリ」ということではないだろうか。右とか左とかのレッテルを貼ること自体に無理がある人たちが80年代も大多数だったし、それは今でも変わらないんじゃないかと思う。アメリカの左右分けと違って、日本の場合は個人的な倫理があまり左右の基準に入ってきていないと思う。性行動とか教会に行く習慣の有無とか、アメリカの左右の基準で日本をはかるのは相当無理がある。
「ソ連=バラ色」型の人たちを「化石左翼」と形容しておられたが、なんと言うかな、私の感覚でもリベラルとか90年以前の心情左翼というようなひとたちは「アメリカよりはソ連の方がまし」的な感覚を持っていた人はそれなりにいたと思うし、その辺は時代感覚のずれかもしれない。「ソ連=バラ色」モデルというと形容がきつすぎるということかもしれないけど、まあつまりは伝統の保持の方に望ましい未来像を描くのではなく、「社会主義的な理想主義」のかなたに明るい未来を見出す人たちといってもいい。おそらくその辺の違いに対するこだわりの感覚には大きなずれがあるから、まあ【な】さんの「おいおい」もそのあたりから来ているのかなと思う。まあ「私は【産経文化人】なんかじゃないぞぷん」、くらいのという心外さであろう。
ただ「アメリカン・デモクラシー」という理想軸は80年代の自分には多分存在していなかった(ヨーロッパと西アジアくらいしか見てなかったからなあ)から、まわりにアメリカ志向の人がいても「奇妙なもの」にしか見えなかったし、その点で思考が偏っていたかもしれません。正直言ってアメリカというのは「嫌な国」であったし、研究もあまり進展していなかった。それは多分今も同様で、「アメリカの本質」のようなものが十分に感得できるような研究はまだ十分なものがないのではないかと思う。私もソローやスタインベックなどを読んで「アメリカという問題」について考えようとは思っているのだけれど、まだ十分には理解できていない。ただ世界最大の覇権国家のことを十分に理解しないままコバンザメのようについていこうとするのは危険なことだと思っています。
靖国神社の魅力というか良さを書いた文章について「新興宗教の信者が本尊を祀る総本山に対して語る熱い言葉とどれほどの違いがあるのだろうか」と書かれているが、まあなんというか魅力というものを理解してもらうということは難しいことだなと改めて思った。私としては「あののんびりとした、北海道から沖縄までの方言が飛び交うゆったりとした雰囲気」なんていう描写は「壊滅前のニュー・オーリンズのバーボン・ストリートではジャズやソウルミュージックの真髄に触れた感じがした」、くらいのノリで書いたつもりだったし、私も含めて靖国神社にはものすごく強い先入観がある人が多いだろうから、多分一度行っただけではそのよさはわからないだろうから続けて何回か行けばわかるんじゃないの、くらいに書いたつもりだった。まあ「信仰者の滑稽さ」を感じ取ろうとして読もうとすれば十分に読める文章かなとは思うが、まあそれは「ナナメ上」からの読み方だというべきだと思う。