4894.テポドン発射/熱情と受難/『逆さまゲーム』(07/05 11:12)


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昨日帰郷。特急の中では結構寝ていたが、マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』(河出文庫、1985)は読了した。読み終わって遅ればせながらようやく構造を理解したが、なるほどフランス小説というか、ストレートなようでいて手の込んでいる構造は面白いなと思う。晩餐会の描写はなんとなく『コックと泥棒、その妻と愛人』を思い出した。passionという言葉が「熱情」と「キリストの受難」の両方を表すという言語的な構造が、「熱情」に宗教的な、あるいは哲学的な深みを持たせている。「熱情」に対する受け取り方の日本とフランスの違いのようなものをテーマにして論じてみるといろいろと面白いだろうとは思う。「熱情」は原罪でもあり犠牲でもある。そういう意味で宿命的なものと受けとめられていると考えていいだろう。日本では多分それは克服すべきもののようにとらえられているだろうが、理趣経など密教系ではどのような解釈になるか。否定すべきか、肯定すべきか、宿命として受け入れるべきか、克服の対象とするべきか、まあ人間が人間として生きている以上、避けることの出来ないテーマであろうし、それがキリストという「神の受難」に結びついているところがキリスト教という宗教の性格を強く規定しているといっていいのだろうと思う。

<画像>モデラート・カンタービレ

河出書房新社

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<画像>コックと泥棒、その妻と愛人

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

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で、そのあとはアントニオ・タブッキ『逆さまゲーム』(白水uブックス、1998)を再び読み始めた。これは短編集で、表題作の「逆さまゲーム」と「ドローレス・イバルーリは苦い涙を流して」の二作を読んだ。これらの短編は物語の作り方、つまり設定の仕方やその展開の仕方についていろいろ教示してくれるものを感じる。「人に聞いた話を、いつもの手法で語りなおす」とか、「それまでこうに違いないと思っていたことがそうでないことに気づいた、その発見の驚きや怖れが端緒になっている」とかの言葉である。とにかく手法、スタイルといったものの確立がいかに大事であるか、それは特に短編においてそうだ、ということがよくわかる。

「逆さまゲーム」はイタリア人の男とポルトガル人の女の話で、端緒は独裁国家であったポルトガルに「同志の資金援助」のために連絡を取るように頼まれた主人公がポルトガルに行き、知り合ったその女性が亡くなった。その連絡を受けて会いに行くと、その女性は彼が思っていたような女性ではなかった、とその夫に告げられる、という話である。スパイものやミステリーのような構造逆転がいろいろな雰囲気の中で語られる。そしてどちらの姿が「本当の姿」であったか、ベラスケスの「ラス・メニーナス」を種に語られる。現実が夢か、夢が現実か。

「ドローレス・イバルーリ…」はスペイン市民戦争やフルシチョフのスターリン批判など30年代から60年代にかけてのヨーロッパ史を背景にしたある個人の物語なのだが、最後の落ちがよくわからない。年代的に「プラハの春」とかの絡みかもしれないのだが、イタリア人とそれがどのように関係するのか、わからないまま。須賀敦子の解説も各作品についてはほとんどの触れられておられず、こういうのは少し難しいなと思う。

<画像>逆さまゲーム

白水社

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