4644.冷蔵庫/麻雀/古井由吉『仮往生伝試文』/カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』(04/27 09:49)


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村上の登場人物は、正体不明であってもやがて「善」と「悪」(少なくとも彼の物語世界にとっての)がおおむねは明確になっていく。そこにリリカルなものがある。ただひとつ、巨大な悪でありながら重要な登場人物を生かす存在として「皮剥ぎボリス」があり、今考えてみると彼の存在が『ねじまき鳥』の物語世界に圧倒的な厚みを加えていることがよく認識できるのだが、イシグロの場合はそういう存在をもっと明確に自覚的に描き出している。そこに「ナチス」や「帝国主義」というものが存在した現代ヨーロッパ文学の厚みがあるといえるのかもしれない。今思い浮かべるのはオーソン・ウェルズの『第三の男』だ。よく考えてみると、悪を悪としてのみは描かないウェルズのスケールの大きさは、現代アメリカにはほとんど全く受け継がれていない。(日本に関しても、そういうものは日本にはもともともっとあったはずなのだが、今ではアメリカの影響を受けたのか、酷く一面的になってきている)アリダ・バリ演じた女性の存在の厚みを、「女とはそういうもの」としてのみ受け取っていたのでは意味がないのだ。「女」ではなく、「人間」がそういうものなのだ。

イシグロの叙述は淀みなく、流麗だ。鴨川の流れのように、瀬音を立てて穏やかに流れていく。主人公は懸命に努力するのだが、その努力が「間違っていた」ことが明らかになる。そしてそうした主人公に作者は優しい。人生をかけて壮大な間違いをおかすことが人生なんだ、といっているのかもしれない。人は間違いながらでなければ前には進めない、間違いはきわめて悲劇的ではあるけれども、それでも人は前に進む。

『わたしたちが孤児だったころ』は『日の名残り』のようには作者が方法論に対して意識的ではないが、現実世界における善悪の表裏一体性や愛と犠牲といったテーマにはより意識的である。「20世紀の悲劇」あるいは「近代の悲劇」をどう受けとめ、それにどういう答えを出すか、ということを作者は明確に意識しているように思われる。その悲劇を描くのに、宿命的な重層性の中に存在する戦間期の歴史的「上海」を舞台にして、これだけの作品が書ける作者の力量に、脱帽である。

今日は雨が降っている。家の裏の桜は今が盛りだ。ストーブをつけている。庭先のハナカイドウも蕾を膨らませ始めた。空が明るくなってきた。雨が上がるのかもしれない。


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