4644.冷蔵庫/麻雀/古井由吉『仮往生伝試文』/カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』(04/27 09:49)


< ページ移動: 1 2 3 >

車中では古井由吉『仮往生伝試文』最初の「厠の静まり」を読む。これでも小説なんだ、と驚く。何というか、今昔物語のような、夏目漱石の『百物語』のような、しかし一番最初に思い浮かべたのは太宰治の『晩年』、その中の冒頭の「葉」である。何だかひどく断片的で、どこに中心があるのかわからない。最後には日記形式になっていて、つまり主人公=作者の思考の中の話だった、ということが明らかになるのだが、いろいろな説話についての作者の思いや考えがある方向を向いて語られていることはわかる。つまりその構造自体がフィクション、虚構ということか。いったいエッセイや随筆と小説の境界はどこに引かれるのだろうと読み終えたときには思ったのだが、今考えてみると確かにこれは小林秀雄の『本居宣長』のように作者自身の存在が現実的な確固としたものではなく、「思考している自分」を客観的に、静かに観察しているようなメタな視点があり、そこに虚構性が発生しているのだなと思う。なんというか、小説のある種の極北なのかもしれないという気もする。一冊全部読んで見ないとまだ何もいえない、と思うのだが。

しかし時間にすればそれを読んでいたのはごくわずかで、大体はカズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』(ハヤカワepi文庫、2006)を読んでいた。(今気がついたが、これは文庫化されたばかりなのだ)これは530ページの長編なのだが、自分でも驚いたが昨日一日で読了してしまった。総計7時間ほどではないか。読み終えたときには自分でも本当にちゃんと読んだのかと疑うくらいであった。そのくらいストーリーに読ませる力があり、かといってそれがもりもり読んでいる、というかとんかつをよく噛んで飲み下すような読んでいるという強烈な充実感がある、というのではない。静かに紅茶を飲んでいたらいつのまにかいっぱいだったポットが空になっていたというようなごく自然な感じなのだ。(たとえ自体がなんともいえず不自然だが。)

そのように一気に読める作品なのだが、その内容について考え出すとちょっと呆然としてしまうくらい複雑でものすごくたくさんのものが詰め込まれている。今思いなおしてみると、『日の名残り』のような二人称小説という感じもかなり強い。執事、という設定と孤児あるいは探偵という設定はどこか似ている。ある社会の周辺にいるには違いないが、排除された存在ではない。アウトローでもなければ見捨てられた階級でもない。社会の中で確実なポジションを得ている。努力と才能次第で社会の中枢に食い込むことも出来る。どちらの主人公も自己認識と他者から見た自分がずれていて、そこにある性格的な悲劇が生じるのだが、それに対する作者の視点は暖かい。

この作品の展開の最も衝撃的な点は主人公の存在自体が悪意と愛によって生かされていたということを知るどんでん返しにあるだろう。このあたりは推理小説的な仕立てになっている部分の多いこの作品を成り立たせる最も重要な点なのでネタばれ的なことを書くのは避けるべきだろう。ここでは、主人公の生活そのものがある取引によって成り立っており、ある犠牲、ある限りない愛によって彼の生が成り立っていたということのみを書いておくに留めたい。そして、彼は彼が救おうとした人によって救われる。そしてその人は彼を救うことになるだろうということをあらかじめ知っていた。

彼は探偵として世の中の悪に立ち向かい、「世界を救う」ために「世界の混乱の中心」である上海に向かう。その租界は植民地ですらない。世界が悲惨であることの責任を認めようともしない上海の支配階級。イギリス人も、国民党政府も、新たに支配者となろうとしている日本も、殺戮ばかり繰り返す共産党も。彼は「世界を救う」ことよりも「愛」を選ぼうとするが、その選択のときに公的な事件がシンクロして起こることは『日の名残り』と同じ構造だ。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公自身の「癒し」と「愛」のどちらを選択するかという時に明確に後者を選択するのだが、イシグロの登場人物は「選択」することを拒否されているかのようである。あるいは人間は選択することが出来る、ということはある種の「神話」なのではないか、といっているような気さえする。村上は選択に近づき、イシグロは選択から遠ざかる。


< ページ移動: 1 2 3 >
4644/5074

コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
一覧へ戻る

Powered by
MT4i v2.21