4605.保坂和志『季節の記憶』:淡々とした記述で「過剰」を表現する(05/06 08:53)


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吉田秀和がロシア文学とロシア音楽を比較して書いていて、文学ではプーシキンがいて、音楽ではチャイコフスキーがいたからそうなったんだ、ということを言っているのだが、プーシキンは天才だったがチャイコフスキーはそうではなかった、といっていて全くその通りだよなあと思った。民族の文学とか音楽とか言うものはやはりその礎を築いた「先祖」に規定されてしまうところが大きいということだが、それを言えばやはり日本の文学は『源氏物語』に大きく規定されているわけで、『文豪の古典力』で島内景ニ氏が言うように、与謝野晶子が源氏の現代語訳をやってから作家たちが原典を読まなくなったことが、日本の文学にひ弱さを産んだ原因だというのはその通りなんじゃないかと思う。とはいっても私なども谷崎訳で読了しただけで、『源氏物語湖月抄』を買って読み始めては見たもののなかなか進まない。近代文学で言えばやはり漱石・鴎外ということになろうが、プーシキンの天才に比べるとやはり漱石は苦悩の人だし鴎外は古典的過ぎて天才のきらびやかさがない、というのが日本の近現代文学を規定してしまっているのかもしれないという気がした。

昨日から書棚を大幅に入れ替え、今まで一番とりやすいところに歴史関係を置いていたのを、文学をメインに置き直すことにした。まだ作業中だが、やってみるとそちらの方が落ち着きがいい。自分にとっての重要度というのはそういうほうがより実態に近いんだなと思う。何とか活動の基盤が成り立つように頑張ろうと思う。

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