4539.小林秀雄『モオツァルト』(07/17 18:12)


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16歳のとき、モーツァルトは既に「作曲のどんな種類でも考えられるし、真似できる」と父に言ったそうであるが、これは「私は9歳のとき、ラファエロのように描くことが出来た」といったピカソの言葉を思い出す。それを小林は、「天賦の才の重荷」と言い、ゲーテの「天才とは努力しうる才である」という言葉を引用している。

「抵抗物のないところに創造という行為はない。これが芸術における形式の必然性の意味である。」

この言葉はよくわかる。抵抗のないところで想像を行おうと言うことほど難しいことはない。しかし抵抗だらけの身動きの出来ないところで何も出来ないということをいやと言うほど経験する普通人は、なるべく抵抗のないところで動きたいと思う。しかしそれでは創造的な行為は出来ない。「もはや五里霧中の努力しか残されてはいない。努力は五里霧中のものでなければならぬ。努力は計算ではないのだから。」

五里霧中の努力。それに関しては自分もよくわかるのだが、その中でたくさんのものを創造したモーツァルトのことを思うと、やはり天才というものの高みを実感せずにはいられない。

弦楽五重奏第4番の冒頭をtristesse allanteだとゲオンは書き、小林は「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」と書く。「彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。」それが彼の心の奥底にあるものだ、ということなのだろう。心の奥底にあるかなしみに、涙は伴わないだろう。人間存在の本質的な孤独に、人は涙することはない。「ただ孤独なだけ」なのである。

モーツァルトの主題が一息で終わるほど短いとか、交響曲39番の最後の全楽章がささやかな16分音符の不安定な集まりを支点とした梃子の上で、奇蹟のように揺らめくとか、言われてみて気付くことも多い。私が小林の文章の多くを読んだ気になっているのと同様、モーツァルトも聞いた気になっているだけなのだなと反省させられる。

そのほか読み取らなければならないものはまだほかにあるのだが、反芻しなければならないことがたくさんある。このくらいにしておきたい。いちおう読了はしたのだが。

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