4539.小林秀雄『モオツァルト』(07/17 18:12)


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小林の語りが、実はゲーテの人間像を非常に深く掘り下げていることに気がつく。いままで小林の文章を読んでいても、かなり表面的なところで反応していたが、実は彼の文章はかなり詩的であり、小説的だ。結局は外面的にしか叙述できない文芸批評というものの限界を、彼は自らが創作者になることによって突破しようとした。そしてその実現の金字塔が、『無常という事』であり『モオツァルト』であるのだが、それがゆえに「科学的な批評」を求める勢力からは疎まれた。現在では、小林の衣鉢を継ぐ批評家はそう多くない。そしてその批評の多くが創作者からはあまり省みられていないことを考えてみると、小林の方法の実行のし難さとその屹立ぶりが激しく目立つ。文芸と言えば小説、それ以外のジャンルはきわめてマイナーな地位に置かれている現代の状況を考えてみると、批評というジャンルに後継者を持たない創造性を発揮した小林という個性の孤独もまた明らかである。

「自分は音楽家だから、思想や感情を音を使ってしか表現できない」とモーツァルトは父レオポルドに書いているが、そのことをそのままに小林は受け取っている。モーツァルトの個性の奥底にあるのは言葉ではなく、音なのだ、と。それはわかりそうでわからないことだ。ただ個性の奥底に音がある人間だけが、本当にそれを理解できるのだろう。そして人の個性の奥底にあるものは、必ずしも言葉ではないのだと、職人的なまでに言葉の人間である小林が言う。いや小林の根底にあるものも、ほんとうは言葉ではなかったのかもしれない。その言葉ではないものを養うために、小林は骨董に凝り、また多くの努力を惜しまなかったのだろう。心の奥底にあるものを養うこと。心の奥底にあるマグマを精進によって鍛えること。それが見え、鍛ええたものが天才なのだろう。

「美というものは、現実にある一つの抗しがたい力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遙かに美しくもなく愉快でもないものである。」と小林は言う。昨日はずっと、モーツァルトを聞きながらこの文章を読んでいた。気がついてみると、私はCDを11枚、LPを3枚、持っていた。中でも弦楽五重奏を何枚も持っている。これは、数が少ないからクインテットなら揃えられると思った時期があって、それで何枚も買ったからだ。逆にオペラはほとんどないし、カルテットもほとんどない。そういう偏った揃え方なのだが、たまたまトスカニーニが交響曲の39番、40番、41番を振った1930−40年代の復刻CDを持っていたため、小林の論の展開にはかなりついていくことが出来た。「美とは美しくもなく愉快でもないもの」という言い方は小林独特だが、わかる。それは、やはりモーツァルトの楽曲が明らかに一つの「力」であって、力である以上聞いているわれわれは微妙な抵抗を感じざるを得ないのである。マーラーやベートーヴェンよりも、モーツァルトの力のほうが原初的で、強い。

<画像>モーツァルト : 交響曲第39番変ホ長調K.543
NBC交響楽団, モーツァルト, トスカニーニ(アルトゥーロ)
BMG JAPAN

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