「自分は音楽家だから、思想や感情を音を使ってしか表現できない」とモーツァルトは父レオポルドに書いているが、そのことをそのままに小林は受け取っている。モーツァルトの個性の奥底にあるのは言葉ではなく、音なのだ、と。それはわかりそうでわからないことだ。ただ個性の奥底に音がある人間だけが、本当にそれを理解できるのだろう。そして人の個性の奥底にあるものは、必ずしも言葉ではないのだと、職人的なまでに言葉の人間である小林が言う。いや小林の根底にあるものも、ほんとうは言葉ではなかったのかもしれない。その言葉ではないものを養うために、小林は骨董に凝り、また多くの努力を惜しまなかったのだろう。心の奥底にあるものを養うこと。心の奥底にあるマグマを精進によって鍛えること。それが見え、鍛ええたものが天才なのだろう。
「美というものは、現実にある一つの抗しがたい力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遙かに美しくもなく愉快でもないものである。」と小林は言う。昨日はずっと、モーツァルトを聞きながらこの文章を読んでいた。気がついてみると、私はCDを11枚、LPを3枚、持っていた。中でも弦楽五重奏を何枚も持っている。これは、数が少ないからクインテットなら揃えられると思った時期があって、それで何枚も買ったからだ。逆にオペラはほとんどないし、カルテットもほとんどない。そういう偏った揃え方なのだが、たまたまトスカニーニが交響曲の39番、40番、41番を振った1930−40年代の復刻CDを持っていたため、小林の論の展開にはかなりついていくことが出来た。「美とは美しくもなく愉快でもないもの」という言い方は小林独特だが、わかる。それは、やはりモーツァルトの楽曲が明らかに一つの「力」であって、力である以上聞いているわれわれは微妙な抵抗を感じざるを得ないのである。マーラーやベートーヴェンよりも、モーツァルトの力のほうが原初的で、強い。
<画像> | モーツァルト : 交響曲第39番変ホ長調K.543NBC交響楽団, モーツァルト, トスカニーニ(アルトゥーロ)BMG JAPANこのアイテムの詳細を見る |