4532.昭和天皇の発言メモ(07/22 10:01)


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普段着が背広、というのは典型的な英国紳士の姿勢であるし、敗戦後も最初に外国報道機関のインタビューを受けてこれからは英国的な立憲君主制にしなければならないとご発言になっている。元駐英大使の吉田茂が首相になったのもそうした陛下の意向と全く無関係ではないだろう。

昭和天皇は張作霖爆殺事件の際に田中義一首相を叱責し、田中がそのショックで死んでしまった(としか思えない)時以来、政治への口出しを抑えられるようになり、伝えられるように226事件の際の「自ら近衛兵を率いて反乱軍を鎮圧する」発言や終戦の際のいわゆる「聖断」以外に政治的な発言を厳に慎まれた。開戦の際は明治天皇の和歌を引用されて対米英戦争を避けるように東條首相に望み、東條も努力したが開戦を避けられなかった、という話は事実だと思う。そこに一貫するのは「親英米」というキーワードである。

表には出さないが昭和天皇が政治家や側近たちに対しいろいろな不満を持たれていたことは今回のような形で時々出てくる。『高松宮日記』が出版されたときもかなりご不興であったようだ。また小林よしのり『いわゆるA級戦犯』にもでてくるが、戦前唯一の完全な庶民層出身(伊藤博文がそれに次ぐくらいか)の広田弘毅の組閣の大命の際には「名門をくずしてはならないこと」と指示されている。われわれ下々のものには大御心は理解することなどできない、と文字通り思うのだが(決して他意はない)陛下の内面にはかなり複雑なものがあられたのだろうとは思う。私は一時相沢事件で暗殺された永田鉄山のことを調べていたのだが、当時の侍従武官長であった本庄繁(統制派の永田を憎んだ皇道派に属する)が『本庄日記』に事件当日の昭和天皇のおことばとして、「こういう日に水泳に行ってよいか」、と下問されていることが書かれている。この記録は本庄の永田への悪意とも取れるし、昭和天皇への悪意とも取れるので真実と判断していいのか難しいところなのだが、わたしは初めてこれを読んだときはかなり衝撃を受けた。

<画像>高松宮日記〈第1巻〉

中央公論社

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<画像>いわゆるA級戦犯―ゴー宣SPECIAL

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<画像>本庄日記

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