日本人が集団主義でアメリカ人が個人主義だとよくいうが、私は絶対うそだと思っている。ある建前を正しいと信じようということになったとき、その建前への忠実度はアメリカ人の方が絶対的に高いし、はっきり言ってそれに関しては思考停止していて、疑うということもしない。だから集団でそれを思いこんで敵を一気に殲滅することができるのである。日本人はいつまでもその建前が正しいかどうかぐずぐず考えていて、決断を迫られるとけつをまくったり、面倒な人たちだ。従った顔をしていても、心の中では全然従ってなかったりする。もちろんそれが動き出すとだんだんまあいいかという気がしてきてあまりいろいろ言わなくなり、今度は建前が絶対化してきてフレキシブルさを失うという感じがする。つまり、ある物事をやろうというときに、立ちあがりがアメリカ人の集団の方が絶対的に早いし、止める決断も早い、ということである。集団の効用というものをよく知っているのは彼らの方で、我々は集団に属することは嫌いではないけれどもその中で出来るだけ勝手なことをやりたいという志向が強いため、第2次世界大戦などでも現場の暴走で失敗を重ねることになったのだ、と思う。
話はずれたが、まあ極論を言うとアメリカ人は「偽善によって団結する」のがうまい、ということである。ヘミングウェイはその偽善の部分についに安住できなかったのだという言い方も成り立つだろう。
しかしまあ、人間というのは本来そういうアメリカ人たちのようなものかもしれないなとも思う。ある種の観念というものを用いるなら、それが人々がまとまるように、行動を起こせるように用いるべきものだろう。そういう使い方はエネルギーを必要とするものだし、やはりそこにはアメリカの文明としての若々しさというようなものを感じる。そんなに宗教心がなくても、日本人の多くはやはり所詮この世は仮の宿り、と思っているような気がする。その中で、集団的に新しいものを構築するのにエネルギーを使うより、個人で出来る細部になるべくこだわろうという傾向が強いのではないか。
なんだかヘミングウェイとはだいぶ離れた話になってきた。
文学論でこういう国民性論のような大きな話に話を広げてしまうのはあまりよくないのだと思う、特に日本では。独白の手法はジョイスの影響を受けているようだ、とかそういう話を書いたほうが好まれるのだろうな。
しかし、結局私が物を読むと、この同じ世界に生まれた人がどんなことを考え、どんなことをして何を大事に思い、生き、そして死んでいったのか、というようなことしか関心がないし、ヘミングウェイという扉の向こうに見えるアメリカ人というもの、実際に我々が付き合わなければならないアメリカ人という人種について考えてしまう性向が私にはある。ジョイスを尊敬してジョイスの影響を受けた、という話もまあ興味の湧かない話ではないが、そういう話を聞くのはともかく自分で書きたいとは思わない。
私自身が集団の中に安住できるタイプの人間ではないので、集団と個人という問題については常に考えている、ということもあろう。結局国家論や靖国論、ナショナリズム論、安全保障論などに話がいっても、自分自身に常につきつけられ、自分自身に常につきつけて考えているのは、いつもそのテーマなのだと思う。
以前筒井康隆の『文学部唯野教授』や『フェミニズム殺人事件』を読んで、「文学というのはつまりは観念の遊びだ」、という考えに至ったのだが、遊ぶならもっと他のところで遊んだ方が楽しいよなあという気が私はする。
なんだかはっきりしなくなってきた。文学論は難しい。