4529.アメリカ人の集団主義と日本人の個人主義(ヘミングウェイ『キリマンジャロの雪』を読んで)(08/03 10:59)


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きのうは午前中に家を出て東京駅へ。切符を確保し丸善をのぞき昼食用にカツサンドを買って中央線に乗る。新宿からの特急の中でいくつか本を読む。チャンネルをザッピングするように、少し読んでは他の本に切りかえる、という感じだったが、結局きちんと読んだのはヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」だった。角川文庫の同名の短編集を読んでいて、その最後から2番目に表題作が掲載されているのである。それまでの短編がどれも比較的短いのに対し、「キリマンジャロの雪」は50ページもあって「長い短編」といわれているのだという。

この小説はいわば愛と死というものをテーマにしたものといってよいと思うが、愛と死とが全然別に存在しているという感じがヘミングウェイの孤独感のようなものが現われていていいと思った。私は小説というものをそうたくさん読んではいないので批評をしても凡百のものになるとは思うが、ちょっと試みてみたいと思う。いや、というより恐らく批評になる前の書き散らしという感じになるだろう。思いつくまま。

まず第一に、これを読んでヘミングウェイの作品をもっと読みたいと思った、ということを書いておこう。アフリカの狩りで怪我をしたアメリカ人の男が妻の献身的な介護にいろいろと悪態をつきながら過去を回想し、そのいくつかの断片的な回想をそれぞれ小説にするという構想が果たせぬまま死んで行き、今わの際に救出される飛行機の中でキリマンジャロの雪を見る、という幻想を見る、という話であるが、その設定も秀逸だし断片的に語られるいくつかのエピソードもまた酷く魅力的だ。現実の世界での現在の妻とのやり取りも面白いし、その妻についてのさまざまな回想、上流の社交の話などもいい。その一つ一つがすべてもっと大きな話の中心に据えて語れそうでありながら、過不足なくカットバックされて終焉に流れ込んでいく、そういうつくりのうまさにも感動する。

と、今書きながら思ったが、これは要するにある種の、というか自分が好きな種類の演劇と同じような構成になっていて、その感動のつぼみたいなものに実にうまくぴったりとはまっているということに気がついた。なんというか、正直言って感動して当たり前のような小説なんだな。私にとっては。

なんというか、構成が明確なところが私にとっては心地いい。小説を読むためには緊張感があったほうがいい場合もあるが、人知れず近づいてくる死というものをテーマにすると、ある種の心地よさのなかで走馬灯のように記憶がフラッシュバックしながら終局に近づいていくという構成が一番ぴったりとはまると思う。こうした構成の明確さは日本の小説にはあまり感じられないもので、恐らくそういうところがあんまり自分が面白いと思わないところなんだろうなと思った。

しかし、いろいろ読んでみて一番感じるのは、ヘミングウェイという人にはどうも一番根本のところに暗いものがあるということである。彼は昂揚はするが、酔うことはない。何も信じることのできない近代人の、その根本的な暗さが、彼の作品の特徴であるような気がする。神はもちろん、愛も、小説も戦争も革命も政治も金も豊かな生活も冒険ももちろん文学も、本当には信じていない。作家というものは、というより人間というものは、恐らくは今あげた中のどれかは信じていることが多いように思う。ヘミングウェイは何かを信じたくてそれらのすべてを実際にやってみたのだろう。しかし最終的に彼が選んだのは自らの命を絶つことだった。私の生まれる13ヶ月前のことだ。

アメリカ人というのはそんなものかな、と思うことがある。結構何かを軽薄に信じているような気が本人はしているが、本当には何も信じていないんじゃないかと。つまり、信じるというより、「私はこれを信じているということに自分ではしている」という感じなのである。ヘミングウェイはその欺瞞性に耐えられなかったのだろうなと思う。アメリカ人は強固のようでいて、一人一人を見ると結構いろんな不安を抱えている人が多い。変な思いこみをしている人も多い。彼らが強力なのは、そのよくわからない思いこみを集団で共有することが実に得意だということである。あっという間に一色になる。


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