4523.実感信仰と理論信仰/プリンシプルのない国(07/28 08:34)


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昨日。丸山真男『日本の思想』を読む。この新書は「日本の思想」「近代日本の思想と文学」「思想のあり方について」「「である」ことと「する」こと」という四つの文章が収録されているが、うち「日本の思想」を読了し、「近代日本の思想と文学」を読んでいる。

<画像>日本の思想

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昨日も書いたが、丸山という人は凡百の戦後民主主義論者と違い、非常に切れがいいし、論理の構築もすごいと思うところがある。議論は最終的に西欧文明の直輸入に由来する「理論信仰」と農村共同体の人間関係から立ち上がる「実感信仰」についての議論となり、政治、なかんずくマルクス主義の理論の強烈さと「実感信仰」の文学の対比という図式が出来てしまい、そこに議論が集中した、ということはあとがきを読んで知った。まあそれは可笑しいのだけど、そういうふうになることは理解できる。現在の文学でも「戦争の悲惨さ」をうたうような意味での「実感信仰」はなくなることはないし、日本の思想傾向はどこまでも「理論信仰」と「実感信仰」の二分論は有効でありつづけるのではないかという気が、少なくとも現状ではする。
これはたとえばサッカーでも一部に「戦術信仰」、3−4−3とかそういうフォーメーション、戦術のことばかりを問題にする人たちが(それも多数)いることなどを考えると、形を変えて現在でも強く存在するなと思う。彼らはトルシエを支持しジーコを排斥したわけだが、実に皮相だという印象を私などは免れ得なかった。かといってサッカーにおける実感というものはおそらくは子どものころからの貧しいストリートでのボールの奪い合いで育ったマルセイユのジダンやリオデジャネイロのブラジル選手たちなどでなければなかなか生まれないだろうし、そのあたりでの自然発生的な実感というのは日本では弱いのは実情だろう。だからこそ戦術至上主義に思考が傾くのも、ある意味わからないことはない。しかしそれも一つの極端主義だと思う。

結局丸山が何を言いたかったのか、というと、わたしは要するに日本には「規範意識」がない、ということに尽きるのではないかと思う。つまり、あらゆるものを判断するのに基準になる規範、クラッシック、というものである。議論が積み重ならず、ただ平面的、空間的に配置されるに過ぎないことなど、「規範」というものも歴史の中で少しずつ新しきを取り入れ古きを捨てるものであるが、少なくとも思想に関しては日本には規範というものが欠けている、ということはまあそうだろうと思う。その規範意識をどのようにつくっていくかという建設に関してはおそらく私と見解は一致しないと思うが、強靭な規範が育たず、「理論」と「実感」の二つの信仰の間を揺れ動いているのが日本の姿だ、という指摘は相当な度合いでその通りだと思う。

それは別の言葉で言えば最近評判になっている白洲次郎の言う「プリンシプル」だろう。原理原則、と言ってもいい。白洲には『プリンシプルのない日本』という著書があり、これは読んではいないのだが、いいたいことはそういうことではないかと思う。

ジーコは自分で考えるサッカーと言い、オシムは日本らしいサッカーと言う言い方をするが、つまりはそういう日本的なプリンシプルに基づいたサッカーと言うことだと思う。逆にいえば日本にプリンシプルがないのだとしたら、サッカーを通じてそれを作っていくということになるのではないかという気が私にはする。

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