4522.アメリカの政治風土/小泉首相と同じ穴の狢/第二バイオリンを弾けない性格/プリンシプルのない規律(07/30 10:27)


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つまり日本社会に変わらない、「規範意識の希薄さ」というものはわれわれ自身が大いに受け止め、それをどう評価し「日本的な規範」をどう構築していくかが一つの重要な問題であると思うと同時に、その当時の時代的なバイアスにどうしても流されてしまっている部分を批判し思想史に位置づけていくことが要請されているのだと思う。

「近代日本の思想と文学」の稿で三木清の「知性の弾力は仮説的に動き得るところにある。この点で知性は空想に似ている」という言葉が引用されているが、全くその通りと膝を打つ思いだった。知性の弾力性のなさという点が戦後民主主義の最大の欠点であったと私などは思っていたのだが、それはむしろ戦後民主主義というよりその衣鉢を継いだいわゆる左翼の人々の問題点と考えるべきなのだろう。

「思想のあり方について」の稿では有名な「タコツボ型」と「ササラ型」の話が出ているが、それが近代日本の西欧の学術の摂取の仕方に由来しているという主張をきちんと認識したのは初めてだったと思う。そしてこういう問題を乗り越えるのはマスコミの力では無理だ、それは「本来マス・コミは孤立した個人、受動的な姿勢を取った個人に働きかけるもの」で、「組織体と組織体との間の言語不通という現象を打開する力には乏しい」からだ、という主張もとても納得がいく。その結果、どのジャンルにおいても自分たちが持つイメージと食い違ったイメージはみな誤りだと認識されるようになり、それを打開するためには啓蒙しかない、という発想になるためによけい言語が通じなくなるという現象を生むという話は全くその通りだと思った。これはほとんどネットで展開されている議論の食い違いを説明しきっているといっていいわけで、つまりこの当時から日本は「オレ様社会」だったのだなと妙に感心した。

「「である」ことと「する」こと」の稿は最初は前近代社会が「である」社会、近代社会が「する」社会であるといった話で退屈な印象だったが、後半に至って俄然面白くなった。丸山という人が一筋縄で行かないのは、分析をして二つの対立する概念を提出したとき、凡百の論者だと一方が正しく一方が間違っていると二項対立を「正義による邪悪に対する糾弾」に直結させるのに対し、両者の存在意義を必ず浮かび上がらせ、中庸の議論にもって行くところであると思った。

そしてそれが「解釈に過ぎない」とか「実践性がない」とか批判される元になっているのだが、つまりそれはそうした論者が社会構造の解釈は常に善悪二元論でなされるべきであると考え、そうした概念が政治的・思想的敵対者の攻撃に使えないことをもって「実践的でない」と考えていることを暴露しているわけで、現代のよくテレビに出ている凡庸な政治家やコメンテーターの精神的先祖がそこにいるなと思っておかしかった。彼らは小泉首相の「ワンフレーズ・ポリティクス」を批判できないし勝つことも出来ない。なぜならば、結局彼らは方法論において小泉首相と同じ穴の狢であって、小泉首相の方がより洗練された技法を用いているに過ぎないからである。

そうした連中と丸山は全然違う次元にいる。最近丸山真男の再評価が進んでいるようで、昨日もそういうムックを立ち読みしたのだが、埴谷雄高との対談だったか、「私は第二バイオリンを弾けない」(つまりおしゃべりのでしゃばりだ)といっているのを読んで、ああなるほどそういう人だったんだなと思った。だいたいそういう性格を「第二バイオリンを弾けない」と表現するところなどもう今では失われてしまったように思われる抜群のセンスではないか。そういうのを読んでもまだまだ結局は「保守」や「右翼」との対抗のために原点である丸山真男に帰れ、というような感じがするだけで、御本尊様をもう一度あがめたところで何も変わらないだろうなという気しかしない。

むしろいま必要なのは、いわゆる保守の側が丸山を再評価することだと思う。彼の議論のうち、時代に制約されている部分は、もはや十分乗り越えることが可能である一方で、不易流行の不易の部分は日本思想史の善き部分として必ず摂取すべきものがあると思う。

彼の議論を読んでいると、戦後民主主義とは健全なる常識、日本人に欠けていた、そして今でも欠けていると思われる健全な「規範意識」の再構築こそがそのもっとも核心の部分であったと思われてくる。そしてそういう意味ならば、時代の制約性を批判した上で、必ず評価しなければならない思想であると思う。


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