3976.彼らの強さ、われわれの弱さ/人生の意味について考える(10/04 08:25)


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ポール・オースター『鍵のかかった部屋』読了。

<画像>鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
ポール・オースター,柴田 元幸,Paul Auster
白水社

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いわゆるアメリカの現代小説、それも純文学(?)の作品を読んだのは、これが初めてかもしれない。読んだことがあったとしても、覚えていないのだから読んだ内に入っていないだろう。英語圏の作品はイシグロやクッツェー、ナイポールといったところを読んではいるが、アメリカの作品は少し雰囲気が違うし、むしろ日本の現代小説に近い感じがする。特に村上春樹には似ているところがかなりある。というより、村上春樹よりもずっと読みやすい。村上はなんというか、風俗を描くところがかなりあざとい感じがするところがあるのだが、オースターの描写は非常に自然で、こちらの方が私の好みだ。

この親近感というのは、ヴェンダースの映画『パリ、テキサス』で夜中の自動販売機スタンドが映されたときの感じを思い出す。夜中の自動販売機という景色は、ヨーロッパで見たことがない。ああいうのがあるのが日本とアメリカの共通性なんだなと思う。そんなような共通性というものを、『鍵のかかった部屋』を読んでいて感じた。

<画像>パリ、テキサス デジタルニューマスター版

東北新社

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主人公がパリに行って、「新世界」と断絶した「旧世界」の中で神経衰弱に陥り、自我の崩壊の危機に晒されるが、確かにアメリカ人にとって世界は「新世界」「旧世界」「異世界」から成ってるんだろうなと思った。われわれは「異世界」にいるわけだけど、「新世界」の情報、まあ新世界と言ってもアメリカだけだが、はつうつうでわれわれのところにも入ってくる。生活様式とかもちろんかなり違うところはあるにしても、なんというか思考の進め方がわれわれ自身と、というかもっと言えば私自身と近いところにあるんだなと思わされた。

私自身は、アメリカに行ったことは何度かある。アメリカのデモクラット支持のアッパーミドルのインテリ、という一族を何度か訪ねた。最も夫人の両親を訪ねたこともあって、彼らはカトリックのレパブリカン支持のアッパークラスであったが。インテリという人種の純粋形、のようなものをそこで見たような気がする。ケンブリッジスクール、といったかな、ケインズなんかが属したインテリのサロンのようなところで交わされる知的で高級な会話、みたいなものを彼らも交わしていたわけだが、まあ日本にいても私などは昔はけっこうそういう会話を楽しんだものだった。まあこのブログにかいていることもまあ言えばそんないけ好かないスノッブなこともよく書いてるんだろうと思うが、もっと知識のための知識というか、なんと言えばいいか、知識というものをもっと単純に彼らは信じているんだな、ということをオースターを読みながら思ったのだ。

日本ではすぐに知の世界には「現場」が介入してくるものだが、って言うか私のいたようなところはそうだったが、アメリカのインテリの世界というのはそういう感じがなく、純粋に知的世界は知的世界で完結している。言葉を代えて言えば、「世界」を自分の生活に取り込むことで「満足」している感じ、といえばいいか。アフリカの飢餓の話や、ビルマの独裁政権の話もすれば、新種のワニの話やチベットの密教の教義の話もする。別にそれで何かが生産されるわけではなく、話題として取り上げられ、またそれは知識の倉庫に戻っていく、といえばいいか。世界は新世界と旧世界で基本的に完結していて、「異世界」に行くのは「探検」であり、「非日常」の体験だ。異世界の人々が彼らの世界に入ってくることは基本的には拒まない。しかし、自分たち自身が異世界の一員になろうとすることは、まずありえない。彼らの知的世界は強固で確立されている。


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