3677.モンテーニュを探す/塩野七生『ローマ人の物語 迷走する帝国』/ゴルゴ13を朗読するという企画(09/01 09:35)


< ページ移動: 1 2 3 4 >

友人が深川に新しくオープンする朗読とアートのスペース「そら庵」でゴルゴ13の朗読(群読?)をするというので聞きに出かける。そらとは河合曽良のことらしい。場所的にも深川の芭蕉庵のすぐ近く、小名木川が隅田川に接続するところだ。地元なので自転車で20分くらいかけて出かける。時間を少し勘違いしていたのでどうなるかと思ったが、間に合った。ついたときには日本ゴルギアン協会(この企画のために作ったらしい)の高野君が自分がザイールにいったときのスライドなどを出してモブツ政権やザイールについて説明していた。なるほどアフリカというのはこういう感じかと思ったが、ある意味奇妙な懐かしさを感じる。少年時代の自分の周囲というのはある意味ああいうアナーキーなわけのわからない世界だった。モブツ暗殺とゴルゴの連絡網の破壊というのが朗読した回のゴルゴのストーリーの中心だったが(128巻収録の「300万通の絵葉書」という作品)、なかなか面白かった。下町の元工場という空間もアナーキーな想像力を生む場としてはなかなか面白い物だし、「アフリカ」を舞台にした日本の「マンガ」をそこで「朗読する」という「企画の面白さ」はなかなかのものだと思う。音楽の演奏・歌も素晴らしく、オープニング企画としてはそれなりの物であったと思う。

<画像>ゴルゴ13 148 (148) (SPコミックス)
さいとう たかを
リイド社

このアイテムの詳細を見る

特に、朗読をプロデュースするという考えは面白い。朗読という分野は日本においては正直言って未発達だ。朗読のテープやCDなどを探してみて私も思うことだが、高野君の言を借りて言えば「左翼的な」ものばかりで広がりがない。芝居を見に行く、踊りを見に行くという発想はあっても、「朗読を聴きに行く」ということが「楽しみ」として日本では成立しているとはいえないだろう。朗読するくらいなら芝居にする、という発想の方が強いと思う。また、私は聞きそびれたが昨日も中心はポエトリー・リーディングであったらしく、日本で朗読といえばまだそういうものに限定されるのが実情だろう。

しかし『朗読者』という小説一つ考えてもそうだが、欧米では朗読はひとつのジャンルとして成立している。私もイシグロの『わたしを離さないで』などを読んでいて、恋人たちがお互いに本を読みあう朗読というのがいかに切ない、愛の営為であるかというものに心を打たれたことがあるし、芝居の本読みを越えた、あるいは役者としての朗読の表現を超えた朗読そのものの魅力を見つけるという試みがもっとなされてもいいと思う。高野君は「新聞の読み売り」などを例に上げていたが、蝦蟇の油売りの口上など、市井の人々を「悪場所」に引きずり込むための「声の力」、「語りの魔力」というものを探求していくという方向性はあると思う。そういえば浅野温子が古事記を演じるという試みをやっているが、ああいう一人芝居的な方向とか、語りの可能性を見つけていくという試みはもっと幅広く行われていいと私も思う。

朗読というテーマに限らず、高野君のやろうとしていることはものすごくラジカルなことなのだと思う。あまりのラジカルさゆえに、わたしなどが見ると、どうやったらこれがうまく行くか、というようなものが全然分からない。大体普通の意味でうまくやろうとしているのかどうかさえよく分からない。チャーは『気絶するほど悩ましい』のなかで「うまく行く恋なんて恋じゃない」、といっているが、高野君は基本的に「上手く行く芝居なんて芝居じゃない」、と思っているとしか思えない。その中で孤軍奮闘する姿はすごいとは思うが、周りでなかなか手出しの仕様がないという面もまたあるのだろうとも思う。どこへ向かって走っているのか私などには見当がつかない面も多いが、旺盛な活動には私自身が刺激される。


< ページ移動: 1 2 3 4 >
3677/5074

コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
一覧へ戻る

Powered by
MT4i v2.21