3670.身体性と芸能/考えたように生きてみよ/「感情」について考える(08/04 16:28)


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昨日。午前中は体調があまり優れず、ぼやぼやしていた。11時前に自転車で住吉まで。普段行かない駅なので駐輪場の位置が分からず、交番で警官に聞く。おかげで一本のり逃がした。

来た押上行きに乗る。押上どまり。次に来た急行が南栗橋行きなので、これに乗って東武動物公園まで。12時過ぎに到着。昼食を食べるところを探したがなかなかないので、駅前のファミリーマートで安い弁当を買い、どこかで食べられる木陰を探す。進修館はなぜかコスプレの会場になっていて、とても昼飯を食う雰囲気ではなく。そのまま地図を頼りに郷土資料館へ。とちゅう、小さな川の川べりにちょうどいい木陰を見つけ、そこに座って昼ごはんを食べる。いいピクニックになった。

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事前に郷土資料館は駅から20分と聞いていたが、20分ではちょっとつきそうもない。行くまでの風景は、たとえばこんな感じ。

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さすが関東平野のど真ん中。信州の田舎にいても、なかなかこういう平地に田圃や森がある風景はない。やはり埼玉は偉大な田舎だ。

時間ぎりぎりに旧加藤家住宅に到着。演劇祭に何とか間に合った。ちょうど裏口で音楽をやっている劇団時代の友達に会い、トイレに行ったら主催者に会って挨拶する。

第一部は踊り。あるいは無言劇?なんといえばいいのか。パシャパシャ写真を取っている人が何人かいたが、わたしは今回は自分の目でじっくり見ようと思ってカメラは持っていかなかった。会場は古い農家の日本家屋の座敷。踊り手が奥の障子から現れる。この人は空間との関係性をちゃんと持っている。引き込まれるように見た。客席と舞台のあいだという位置づけの位置に立つ柱を相手に踊っているとき、一番前の席に座っていた女の子(8歳くらい?)がいきなり水筒を持ち上げて飲み始めたのが超受けた。その踊りが空間との関係性をつくり、観客を引き込むものであっただけに、その水筒の動きがあまりにはまってしまったのだ。

次に出てきた踊り手は浴衣を着ていたがこの人はバレエの素養がはっきりと見えてしまい、少しストレートな印象にならなかったのが残念。しかし短いステージだったが、この後の舞台に期待を膨らませてくれるものだった。

二つ目のステージは演劇。後で聞くと、群馬県の劇団だという。女性4人。独特の発声法。内容は少し変わった趣味の女性を結婚させるための話し合い、という設定の芝居と、水に落ちて風をひいて、真夏なのにコタツに入って高熱を発している小学生をいかに無茶をやめさせるか、という筋の芝居。独特の発声法でよく聞き取れないところも多かった。客席からは結構笑いが出ていた。

わたしが個人的に不満を感じたのは空間との関係性の取り方という点、あとは発声も大きい。つまりは体作りということだ。私は舞台芸術というものについては基本的に役者の身体性を見に行く人なので、そこが好感が持てないと全然だめなのだが、ストーリー展開も演技の質(間が取れてない演技)もちょっとだった。私はもう10年以上小劇場の芝居を見ていないのでほかのものとの比較も出来ないし、自分の見たい種類の芝居と最初から違うのだからあまり批判しても意味がないだろう。しかし自分にとってそういう芝居を見続けなければならない状況で観客としての私のテンションが極端に下がったことが辛かった。正直なところ、30分くらいなら受け入れ可能だったと思うのだけど。今の時代の小劇場というのはこんな感じなのかな。それなら舞踏や舞踊系を見に行くしかもう舞台芸術は縁がないことになってしまうが。

三つ目のステージは童話をもとにした集団劇。正直なおじいさんおばあさんが旅人から貰った何でも出てくるとっくりを、村人たちが騙し取ってほしいものを唱えているうちに水が噴出し、村が沈んでしまいました、というストーリー。小川未明的。大正の児童文学誌、『赤い鳥』に載せられた童話らしい。旅人をやった女の子が客の視線を集める力があると思った。とっくりをやった男の子があまりにとっくりで可笑しかった。役者を物として扱う、と言ったら変な意味になるが、物の役を役者がやるという発想は面白い。森の木3、みたいな役なら学芸会だが、とっくりを、しかも子供が演じるというのは物に霊が宿ったみたいな感じである種の古代的な感じを醸し出していた。物に憑いている霊というのはああいう子供みたいなものなんだろうなと思うと理解しやすい。


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