3668.河合隼雄、谷川俊太郎、中沢新一、そして宮崎駿(08/06 15:21)


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(後略)

この詩はいい。なんとなく言い回しに三好達治っぽさを感じる。谷川もこういう詩を書くんだ。

<画像>仏教が好き! (朝日文庫 か 39-1)
河合 隼雄,中沢 新一
朝日新聞出版

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読了して河合隼雄・中沢新一『仏教が好き!』を読み始めた。現在72/302ページ。なかなか面白い。中沢新一という学者を私はどうも信用していなかったけど、彼しか持っていない知見というのは確かにあるなあと再認識した。嫌いなところを吸収する必要はないにしても、学ぶべきことは学ぶという姿勢をとるべきだなと思った。

ただ彼が「対称性」にこだわるのはどうも違和感があってしょうがない。仏教がいいのは人間と動物に対称性があるからだとか、つまり仏教では人間も動物も「衆生」として同じものとしてみているという意味だけど、宗教において対称性が崩れたのは帝国の成立、つまり国家権力を成り立たせる構造として採用されたからだと言っているわけだ。中沢のこの言い方はアナーキスティックで、いや誰か別の人がいう分にはアナーキーならアナーキーの面白さがあると思うのだけど、中沢が言うことにどうも違和感があるのだ。多分そこには彼の罠が、あるいは毒があるからであって、それに私が敏感に反応しているのだと思う。国家というものの存在は権力そのものだから、権力の存在それ自身が疎外によって生じた現象であるということを彼は言っているわけで、知によってあるいは仏教によって国家の否定に結びつけようという戦略を彼は述べているわけだ。

私は国家は必要悪であると思う。今の世界において国家がなくなったらただアナーキーな無秩序状態、ソマリアやザイールのような救いのない状態になるだろうとしか思えない。なんというか、そうならないセーフティーネットを考慮しないで、国家の否定ばかりにうつつを抜かしている感じがどうも嫌なのだ。多分中沢ほどの知性なら必要悪としての国家のあり方に対する考察ももっと緻密なものができると思うのに、そこをスルーしているのがどうも納得が行かないとでもいえばいいのだろうか。それは専門外だ、というのは学者のいいわけであって、知はもっと全体性を持ったものでなければならない。狭いし屋野学者や専門家がキーキー言う分には別にあまり気にならないのだ。中沢ほどの知性がその点において怠慢をこいているのが私には気に入らないということなんだと思う。逆にいえば、私はずいぶん中沢を評価しているんだないうことに書いていて気づいてちょっとびっくりした。

夜は『プロフェッショナル』、宮崎駿特集を見る。私は宮崎の監督作品は一つも見ていない。ハイジとか、昔の監督でない作品は結構見ているけれども。宮崎の価値観と自分の価値観が一致しない部分が多いからなんだろうなあと思う。まあスターウォーズとかエヴァンゲリオンとかガンダムシリーズとかも私は見ていないので、食わず嫌い選手権に過ぎないという部分も多々あろうが。

しかしクリエーターとしての宮崎と言う人は非常に面白いと思う。戦後日本の代表的な表現者のひとりと言っていいのではないか。これだけ広く世界に受け入れられている表現者はなかなか日本にはいないだろう。そしてその表現している内容が戦後日本そのものであるということが一つポイントなんだと思う。

今までの作品は正直あまり見る気がしなかったが、昨日の番組を見て、『崖の上のポニョ』は見てもいいかも、という気がした。それは、ポニョが「いい子」ではない、からだ。宮崎のアニメに出てくる子どもはどうも戦後民主主義的な「いい子」だなあという反感がどうも自分にはあって、変な化け物がたくさん出てきてもそのあたりでうんざりしてしまうということが多かったからだ。最後の長編作品ということで今までのものからの脱皮があるのだろうか。それとも期待しすぎかな。

今日は朝いろいろこまごましたことを片付け、松本に出かける。駅からタクシーを走らせ、操法を受けたあと歩いて駅へ。昼食を買って特急に乗り、車内で済ませる。松本に往復3時間弱というのは今までで最短記録。お蔭でよけいな金がかかったが。


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