3660.堀田善衛『広場の孤独』/倫理と感傷の相互乗り入れ(09/16 21:51)


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 彼が芥川賞をもらったとき、その受賞記念会の席上で信州の講演旅行から駆けつけた中野好夫が、「伊那の谷では『広場の孤独』をまるで四書五経を読むように熱心に読んでいて、一字一句についてまで質問が出る始末」と語ったそうである。」(『日本の文学』第73巻解説・村松剛による)

この感じは分る。とにかく構図が非常に明晰なのだ。逆に個人の描写という点では曖昧なところもあるのだが、それは構図にうまく収められている。傑作だと思う。

なお、田舎の図書館で全集を借りたのだがどうも読みにくいので、月曜の朝東京の図書館で文庫本を借りてそちらで読んだ。同時収録が全集本が「鬼無鬼島」、文庫本が「漢奸」。「漢奸」のほうは多分読むと思う。「鬼無鬼島」は余裕があったらということになるか。

それにしても戦後という時代は、この本が出てから11年後に生まれた私にはわからないことが多いなあと思う。

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コミットメント、ということについて少し書こうと思う。人は無意識に何らかのものに否応なくコミットしている。先進国で飽食を楽しんでいることに気がついたとき、自らも途上国の飢餓にコミットしていることに気づく、というように。そしてその気づきは、何らかの運動への目覚めに発展することも多い。逆にいえばそのコミットメントを自覚させることがオルガナイズの重要なテクニックにもなるわけだ。

私は左翼のオルグは相当受けたが結局コミットすることはほとんどなかった。自分でコミットを感じて運動に前向きに賛同したというのは拉致問題に関してだ。いずれにしても、連帯という問題、誰を敵とし誰を見方とするのかという問題、運動というものはさまざまなことが関わってくる。左翼的な運動もあれば保守的な運動もある。楊逸の『時が滲む朝』の主人公もコミットメントへのこだわりがあるが、現実的な中国人たちがあっというまにそういうことに関心を失っていく様が描かれていて、中国人たちのたくましさというか、そういうことにこだわらないオポルチュニズム的な強さというものに圧倒される。そのあたり、中国人を見ていてかなわないなあと思うところである。いい意味でもそうでない意味でも。

話を戻すが、人は直接的なコミットメントより間接的なコミットメントの方がより印象に残るのだと思う。見慣れているものにはあまり違和感を感じないが、見慣れないものには強く違和感を感じるからだろう。目の前の人には辛くあたっても平気だが、縁の遠い人にはいい人であろうとする。コミットメントは、倫理と感傷が相互乗り入れする地点でもある。


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