3600.専門の設定の仕方/存在しないことを存在させる技術(11/24 09:28)


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一昨日帰京。友人とメールでやり取りした中で、齋藤孝『ざっくり!世界史』が面白いという話があって、帰りに地元の書店で立ち読みしてみた。

<画像>齋藤孝のざっくり!世界史
齋藤 孝
祥伝社

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こういう本を私に書いてもらいたかった、ということだったのだが、読んでみるとそれはすごく頷ける。普段私が歴史について話しているようなことを上手く一冊の本にまとめている。もちろん発想の違いは随所にあるが、自分の知っていることをいかに面白く印象的に説明しようかという熱意に溢れていて、そのサービス精神のようなものが私自身のそれととても近い感じがしたのだ。

ということを考えつつ、しかし今の自分があえてこういう本を書きたいかどうかと考えてみると、そういう情熱というのはないなあと思う。もちろん年に10冊以上本を出す齋藤孝にとって本を一冊出すことのハードルは本を出したことのない人間に比べてものすごく低いことは確かだから、単純に比較は出来ないけれども、今の自分にとってそういう高いハードルを乗り越えてでも絶対に出したい本、ということにはならないなあと思う。

でも、こういう本を書いてみたいと思っていた時期は確かにあった。それがかなわないまま先を越されたということはまあ残念といえば残念だが、他の人がやってくれたならそれはそれでいいかとも思う。

齋藤は身体論を本拠にして他の分野に出撃していろいろな本を書いている。身体論のような分野で一定の業績を上げること自体が大変だからそれはすごい才気だと思うのだけど、ある意味なんでもやれるそうした専門を選んだこと自体が彼の成功のもとでもあったなあと思う。確立された専門分野は外から見るよりも中にはいってみると思ったよりもしがらみが多く、その分野の内部で出来ることは本当に限られているし、新しいことをやるためには半端でない能力が必要になる。本当にやりたいことをやる前にずいぶん片付けなければならないことが多く、それで消耗してしまうことも多い気がする。

そういう意味で私は専門の設定の仕方が自分のやりたいことと上手く合わなかったんだなあと今にして思う。しかし、そんなことを今更言っても間に合わない。後輩への忠言として役に立たせるか、でなければ次の人生で役に立たせるかしかない。リインカーネーション。

と思ったらなんとなくさばさばしたところもでてきた。今生でやれることを考えるしかない。

***

相撲を優勝決定戦の決着がつくまで見たあと、丸の内の丸善に出かけた。いろいろ本を物色するが、なんとなくダンス関係の本を読みたいと思ってそのコーナーに行き、結局淀川長治『私の舞踊家手帖』(新書館、1996)を買った。

<画像>私の舞踊家手帖
淀川 長治
新書館

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淀川長治といえばもちろん映画だと思っていたのだけど、実は彼は舞踊にも非常に造詣が深いということをこの本を読んで初めて知った(まだ43/220ページだが)。何しろ13歳のとき、大正11年に彼は神戸でアンナ・パブロワを見て感激し、自らバレエダンサーになることを決意しているのだ。(!)

そんな彼のバレエ評、ダンス評なので映画評と同じく素晴らしいオマージュの連発。しかし厳しいところは思いもかけずシビア、というところも同じ。パブロワ、ダニロワ、ローラン・プティ、ジジ・ジャンメールと伝説的なダンサーたちを語る淀川の口吻は輝いている。


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