天気がよく、時間があるのでまた花の写真を撮ってみる。桃も桜も満開だ。また最近特に意識するようになってきたのだけど、木の花は枝の木肌も美しい。桜のつややかな枝、梅の枯れさびた味わい。桃の堂々とした幹の太さ。こういう魅力を感じ出すと盆栽方面に走るんだろうなと思った。
<画像>
最近、思うところあっていろんなことがあるたびに感謝する習慣を身につけようとしているのだけど、そうしているうちに自分の中で変化が起こっていることに気がついた。
何かうまく行ったときも、それを誇らしく嬉しく思うよりも、まずうまく行ったことに感謝するようにしているわけなんだけど、その方が自分の気持ちがすがすがしいということに気がついた。誇らしく思う気持ちというのは気持ちはいいのだけど、どこか濁っている、ある種の自分の中にある地獄の釜の蓋を開けるようなところがある。でもそれが快感で今までずっとそういうのを味わっていたわけなんだけど、でもそういうことによってその地獄から抜け出せなかったような気がする。プライド地獄というか、誇り地獄というか。ふと気がついてみるとそうだった自分に気がついてびっくりした、みたいな感じだ。
今までうまく行ったことに対して自分の功を誇らず、謙虚にまわりに感謝するような発言をする人を見て、何故そう振舞っているのか理解できず、嬉しく誇らしく思うことを抑圧しているのではないかと思っていたのだけど、そうではなくて誇らしく思うこと自体が苦しく重荷に近いことになっているんだということがわかってきた。そういう気持ちを持つよりそれを実現させた周りの条件とか人や物に感謝した方が楽だしほっとするしずっと気持ちがいいのだ。
だから以前は謙虚な人を見ると禁欲的だと感心したり(誇ったりすることが、もちろんほとんどの場合は内心のことなんだけど、本当に嬉しくてぎらぎらとそれを追い求めていたんだなと今にして思うが)、あるいは偽善的にカッコウつけていると反発していたのだけど、実際にはその方が楽だし気持ちいいからそうやっているに過ぎない、ごく自然なことだということがわかってきた。無理してそうしているのではなく、無理しないからそうなるということなのだ。そう振舞っていると物事の自然の流れに自然に乗っていくようになるし、物事がスムースに進んでいく。そうなっているとその流れが見えるようになって、自分がどうしたらいいのかがわかりやすくなってくる。
こうしたことはなってみないとわからないのだが、なるべく早く気がついた方が得なんだなと思った。若くて血気盛んな頃には気がつきにくいことだし、私のように無駄にプライドが高いタイプだと気がつくのが相当難しいことではあるのだけど。
<画像> | 椿づくし講談社このアイテムの詳細を見る |
『椿づくし』を読む。最初のほうは、茶席の椿。古美術商の物言いとかがやや鼻につくが、椿という存在を通して茶席のしつらえを知るということを気持ちのよいものだと思った。暮らしの中で椿を楽しむ、というページでは伊賀・丸柱の陶芸家福森雅武が自作の伊賀灰釉の大壷に生けた藪椿の大枝が圧巻。これだけ広い床の間があるといいな。