2980.塩野七生のタイプの男/「音楽なしに生きていくことは出来ない」(08/31 09:30)


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一昨日買ってきた塩野七生『ローマ人の物語』、いま40巻の94/143ページ。今までずっと皇帝が主人公だったのに、この巻はミラノ司教アンブロシウスが主人公になっている。時代から言えばローマ帝国の東西分裂前の最後の皇帝、テオドシウスの時代なのだが、アンブロシウスのほうが重要なのか。と思いつつ百科事典などを調べてみると、確かにアンブロシウスという人物がずいぶんやり手であるということがわかった。ローマ市出身で元老院議員の家庭に育ち、「名誉あるキャリア」を重ねているうちにミラノで司教に推挙され、以来キリスト教正統派(アタナシウス派・カトリック)の国教としての地位確立のために尽力して成功している。皇帝すらものともしない勢いだ。教会史の上では「教父」の位置づけで、後の最大の教父・アウグスティヌスを回心させたことによって教会史の上でも不動の地位を占めるようになったらしい。キリスト教聖職者が時代精神の体現者として現れてきたのだから、時代も変わり、「ローマ」も終焉に近づいた、ということは否応なく感じさせられる。

<画像>ローマ人の物語 40 (新潮文庫 し 12-90)
塩野 七生
新潮社

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まあそれにしても、塩野七生の歴史ものというのは昔は本当に没頭したのだが、最近はどうもそうでもない。去年でた『最後の努力』の巻(35〜37)は前半がディオクレティアヌス、後半がコンスタンティヌス(大帝)が主人公なのだが、前半はともかく後半はほとんど印象が残っておらず、今年の巻がコンスタンティヌスの話から始まると思い込んでいたので読み始めたらコンスタンティヌスの死の話からはじまっていたからちょっと戸惑った。今見直してみたらコンスタンティヌスの巻には結構傍線が引いてあって、「お勉強」という感覚では読んでいたことが分かる。コンスタンティヌスは「最初の中世人」であったとか。でもまあ、作者の塩野自身が多分この人物にあまり思い入れがないのだろう、客観的に冷静に描いている感じがする。

それに比べれば、今年の巻のユリアヌスは魅力的だ。そして、アンブロシウスもまだ読みかけだが塩野のタイプの男であるように思われる。それぞれ欠点・弱点、イヤなところなどそれぞれありそうだけど、人間として好きになれるか、魅力を感じるかが作家としての塩野にとって大きなポイントであるわけだ。だからこそユリウス・カエサルをハードカーバーで二冊分、文庫本では6巻にもわたって書いたのだろう。

ふと思ったが、塩野にとってのカエサルは『源氏』で言えば光源氏のような存在で、とにかく人間として男としていうところがない、まあ人間らしい欠点はあるが、いわば神の様なものだが、ユリアヌスとかアンブロシウスの魅力は源氏物語で言えば薫とか匂宮の魅力、不完全であるがゆえに魅力的だというものに近いのではないかと思う。完成された神の時代から下って、不完全な人間たちの時代になり、誰もがすべての徳性は持ち合わせていない時代。そんな構造を吉本隆明が描いていたのを読んで源氏物語の見方がすっかり変わったことを思い出すが、そんな図式がここにも当てはまるように思った。

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